六十話 ジャータカでもないその隙間 Z





 

 ルナは、目覚めた。

 もはや、ここはどこだと自問自答することもなくなっていた。

 アズラエルの部屋である高いマンションの七階からは、相変わらず海が見える。カアン、カアン、という工事の音も相変わらず聞こえていた。

 どうにも、その音がはっきり聞こえると思ったら、ベランダの窓が空いているのだった。

 そこから、心地いい風が入ってくる。ルナは起きて、ベランダのほうへ行った。

 相変わらず、海が見え、かすかな潮の匂いがする。

 

 時計を見ると、十時を指していた。眠る前、この部屋にはグレンがいたことをルナは思い出した。グレンと一緒に朝焼けを見、朝食を食べ、それから尽きぬ話をした。そのグレンは、今はここにいない。ルナはふと、グレンと一緒に話をしたソファのほうを見た。

 そこには、三人分の衣服が、ソファの背もたれに掛けられていた。すべて男物だ。ガラステーブルの上には、まだ湯気の立っているコーヒーが三人分、飲みかけのまま置かれている。さっきまで、まるでここに人がいたかのようだ。

 ルナは、その衣服の持ち主を知っていた。

 この、大きいフロック・コートはセルゲイのもの。

 シンプルな黒のジャケットは、アズラエルのもの。

 このグレーのカーディガンは、グレンのもの。

 カーディガンは、このあいだグレンと朝焼けを見た時に、ルナが寒くないようにと、グレンがルナにかけてくれたものだ。

 

 ……さっきまで、みんな、ここにいたのだろうか。

 でも、いない。

 どこへ行ったの?

 

 ルナは、アズラエルのジャケットの下に、カードキーが置いてあるのに気付き、それを手に取った。この部屋のカギだろうか?

 そうとなれば、さっそく出かける支度をした。ワンピースに着替え、そのカードキーを持った。玄関へ行くと、ルナの靴はきちんと揃えて置いてある。ここに来たとき履いていた靴だ。アズラエルは、もう隠さないのだろうか。

 思い立ってリビングへ戻ってみると、やはりソファの近くにそれは置いてあった。ルナが持っていたバッグ。中身を確認する。ビニールケースに入った現金やカード、タオル地のハンカチ。そして地図。それらはちゃんと入っていた。おかしなことに、地図が書かれていたはずのA4の用紙は白紙になっていた。

そのバッグをルナは肩にかけ、部屋を出た。

 やはりこのカードキーは部屋のカギだった。ルナは施錠すると、エレベーターで階下へ降りる。別に、ここを出て行こうという意図はなかった。

 そろそろ、あの「キョウカイ」とやらに行くべき時が来たのでは、と思ったのだ。

 アズラエルはカードキーをおいて言ってくれたし、隠されていた靴もバッグも、ルナの見えるところに置いていてくれた。

 エレベーターを降りた所のエントランスに、前の時と同じように、あの褐色の肌の青年がいた。

 

 「おはようございます。ルナ様、おでかけでございますか?」

 前のときと同じように聞かれたので、ルナは「はい」と返事をした。

 「では、鍵をお預かりしてまいります」

 ルナは、カードキーを差し出した。青年は鍵を受け取ると、微笑んで言った。

 「キョウカイへ参られるのですね。ではお車をお出ししましょう」

 目をぱちくりさせた。キョウカイへ行くつもりなのだと、ルナは口に出してはいない。

 青年が言うが早いか、ガラスの回転扉の向こうに、タクシーが横付けされた。彼とタクシーを交互に見つつ、不思議そうな顔で出ていくルナの背中に、

 「行ってらっしゃいませ」と声がかけられた。

 

 外で待っていたタクシーの後部座席に乗ると、なんと運転手は、さっき受付にいた青年だ。慌ててエントランスのほうを見るが、青年は受付に立ったままだ。双子なのだろうかとルナは思ったが、とりあえず黙って座席に座った。

 「おはようございます」

 受付の彼と同じ声、同じ顔で運転手は言った。

 「キョウカイまでお送りいたしますね」

 ルナは、めのまえにガソリンスタンドがあったはずなのに、いつのまにかなくなっていることに気付いた。ガソリンスタンドがあった場所には、いつのまにかレストランができていた。

 

 十五分ほど走っただろうか。

 あの遊園地の前を通り、タクシーの運転手はルナがここにきたときの、海が見える石畳のひろい敷地に着いた。洋風のあの、鉄扉――ルナが入ってきたところ。

 「ありがとうございます」

 ルナは言って、外へ出た。出て、それから思い出して慌ててお金を払おうとしたが、タクシーは忽然と消えていた。

 相変わらず、だれもいない。ここに来るまでの大きな道路も、車は走っていなかったし、ひとも歩いていなかった。

海の静かな波の音、そして、動いてもいない船から聞こえる汽笛の音、ウミツバメの声だけが、この世界の音だ。

 ルナはまず、自分がここへ来た入口である、あの鉄扉へ近づいた。来た時同様、がんじょうな鍵がかけられていて、錆びたそれはガシャガシャと耳障りな音を立てるだけだ。開きはしない。

 この鉄扉の所から、遊園地の観覧車が見えるが、動いていない。ルナはてくてくと歩き、遊園地の入り口まで行ってみたが、そこの扉もしっかりしまっていた。遊園地も、開園していない。

 仕方なく、ルナは最初の目的であるキョウカイのほうへ歩いて行った。

 教会、のような建物にも見えるそれの玄関は木の扉で、そしてレンガ造りの建物だ。隣には、ルナがここに来るとき歩いてきた螺旋階段があり、鉄扉がある。

 キョウカイの扉は動かなかった。ルナは、何度かノックした。「すみません、誰かいませんか」と大声で叫んでもみた。返事はない。

 ルナは困ってしまった。今日は休みだったのだろうか?

 どうしよう、とあたりを見回していると、扉の横にあった小さな小窓が開いた。

 そこから、ぴょこん、とぬいぐるみのウサギが顔を出す。ピンクのウサギのぬいぐるみ。

 

 「うさぎ・コンペの参加者ですか?」

 ぬいぐるみは言った。ルナは、その声に聞き覚えがあった。自分の声だ。自分の声がぬいぐるみからするし、しかも、変なことを言う。

思わず「は?」と聞き返した。ピンクのウサギはもういちど言った。

 「うさぎ・コンペの参加者ですか?」

 意味が分からなかったので、ルナは、「いいえ」と答えた。すると、

 「では、うさぎ・コンペが終わってから来てください」

 ピンクのウサギはそう言って、パタン! と窓を閉めた。

 

 うさぎ・コンペ?

 

 ルナは、呆然とたたずんだ。