「ねえ、ルーイ、お願いがあるんだけど、」

 

大きいおなかを抱えて、エレナが帰ってきた。

病院の帰りにどこかへ寄ってきたのか、帰りが遅くてみんな心配していたのだ。

エレナの頼み事など珍しい。珍しいどころではない。エレナが進んで、自分を頼ってくれたことがあっただろうか――いや、ない。

ルーイは、大興奮で「なに!? なに!?」と迫った。

「ウザイからそれ以上寄らないで」

べしっと顔面を叩かれる。顔を叩かれても幸せな顔のルーイは、いつみてもキモい。カレンがそう言い、グレンも「……このドMめ」と呟いた。

昨日退院したグレンは、後遺症もなく、普段通りだった。昨夜、グレンの退院祝いと称して飲み会が開かれ、グレンはこの面子の中で一番飲んで、カレンとルーイを飲みつぶした。これがほんとうに、このあいだ傭兵に襲われた男だろうか。少しはしおらしくしてろとみんなにどつかれたのは、説明するまでもない。

 

「あのね、」

エレナは、後ろに隠していた紙袋を取り出した。これは、どこからどう見ても、有名メーカーの携帯電話ショップの紙袋。新しい携帯を買ったらしい。ルーイだけではない、カレンも、グレンもセルゲイも首をかしげた。エレナは携帯を壊しでもしたのか?

エレナは紙袋から箱を取り出し、中から真新しい、真っ白な携帯を取り出した。最新モデルだ。

 

「いいの買ったねえ、エレナ」

ルーイの言葉に、エレナは顔を赤くした。彼女にしては、ずいぶん大きな贅沢だ。

「あ、あのね……これにね、あたしの携帯みたいにキラキラしたので飾って欲しいの」

エレナはワンピースのポケットから、折りたたんだ紙を取り出す。

「こういうの、描いてほしいんだ」

広げるとそこには、絵が描かれていた。クレヨンで色をつけたであろう、ネコのイラスト。親子だろうか。大きい黒猫と小さな黒猫のイラスト。星と月が周りに煌めいている。

 

「えーっ!? これ、エレナが描いたの!?」

カレンがその絵を覗き込み、驚いて叫んだ。

「上手じゃんか!」

 

「エレナは絵が上手だよ?」ジュリが当然のように言った。彼女は赤いフレームのオシャレな眼鏡をかけて、本を読んでいる。

「お芝居のチラシとか、真似してかくとすごくじょうずなの」

「あんた! あんなものはチラシの裏にかいたらくがきじゃないか!」

エレナは顔を真っ赤にして叫んだ。「あんなもんは絵とは言わないよ……」

 

「でも、可愛いよこのイラスト。あたしは好きだな」

「うん。俺も好き」

カレンとルーイに褒められ、エレナはますます赤くなった。褒められるのは慣れていないのだ。

「どうしたんだ。おまえの携帯ぶっ壊したのか?」

グレンの問いに、エレナは慌てて首を振り、ポケットから自分の携帯を出した。

「ちゃんとあるよ」

「じゃあ、なんで」

「……この子の分だよ!」

エレナは、突き出したおなかを撫でながら宣言した。

 

一瞬、しんとした空気が部屋に流れ――。

 

「な、……なんなのさ、」

ルーイとカレンが、あっちの方を向いて笑いを堪えている。グレンが床を叩きながら笑い転げていた。セルゲイも、後ろを向いたままだったが、肩が大きく震えていた。笑っていないのは、不思議な顔をしたジュリだけである。

エレナの天然ボケは、今に始まったことではないが――。

(例:クリスマスにおみこしが出ると思っていたこと)

 

「おまえ! 赤ん坊に携帯持たせンのか!?」

グレンが堪えかねたように爆笑しながら、そう言った。ルーイも、

「エレナ、赤ちゃんに携帯は少し早いんじゃない?」

と苦笑した。エレナは顔を最高潮に赤くし、

「い、いいじゃないか!! 別に、持つぐらい持っても!!」

「こらこら、妊婦さんをそんなに興奮させちゃダメ」

言いながら、セルゲイも笑っている。「セルゲイさんまで――」

エレナはふて腐れた。

 

それは、エレナだって分かっている。非常識なことは。

 

「ユミコさんはちゃんとあたしの気持ち分かってくれたよ……」

「それ、ユミコちゃんと買いに行ったの!? あたしも一緒に行きたかった!」

「だって、あんた昼間まで寝こけてたじゃないか」

昨夜グレンの退院祝いだと言って皆で飲み過ぎ、ジュリは今日、昼過ぎまで寝ていたのだ。

「えー。あたしも一緒に行きたかったな。……白色なんだね。あたしはピンクが良かった!」

「男にピンクはないだろ」

エレナはまだ、自分の腹の子の性別を聞いていない。生むまでの楽しみだと言いきっている。でも、男だと完全に決めつけていた。

 

「これはね、エレナの赤ちゃんのお守りなんだよ!」

ジュリがえらそうに、胸を張って言った。

「携帯はね、ただの電話じゃないんだよ。あたしたちにとってはね、“自由”のお守りなの!!」

「お守り?」

カレンたちは、笑うのをやめた。

 

「L44のエアポートでさ……、」

エレナは、愛おしげに真っ白な携帯を撫でた。

「ユミコさんが、くまのマスコットぶらさげた携帯持っててさ、……あたしらは、アレを知ってたけど、L44では持てなかった。持っちゃいけなかったんだ。……でもさ、ユミコさんが、これからはあたしらも持てるんですよって言ってくれたの。……よく考えたら、あれがあたしの自由の始まりだったかもしれないなって、」

「あたしも、グレンに携帯買ってもらったとき、すっごく嬉しかったんだよ!!」

ジュリは、真っ赤なラメ入りの携帯にたくさんのマスコットやアクセサリーをぶら下げ、いつも持ち歩いていた。宇宙船内では使えないから、しまっておく人間が多い中で。

 

「……そうか。それは笑って悪かったね」

セルゲイが謝った。

エレナたちには、ただの電話機ではない。ジュリの言うように、“自由”の象徴なのだ。

 

「赤ん坊は携帯なんか使えないよ。もちろん知ってるさそんなこと。この携帯も契約はしてないし、電話機を買って来ただけさ。これはお守りなんだから。この子の人生は、この携帯の色みたいに真っ白なの」

エレナは、願い事をするように、呟いた。

「あたしの子が、自由で幸せな生き方ができるように。それから、――」

「それから?」

ルーイはまたカレンに、「キモイ」と言われるくらい滂沱の涙を流していた。

 

「この子にも、あたしに携帯くれたみんなみたいな、いい友達ができてほしい……」

 

「エエェエレナあああああァァアァアアアア!!!」

ルーイとカレンが、飛びついてきたのでエレナは本気でびっくりした。

「な、ななななななんだい!? あんたら!!」

 

「なんてあんたってばカワイイの!! ルーイにはもったいないったらないよ!!」

「エレナあああああおまえ可愛すぎるだろおおおおおお!!!!!」

「気持ち悪いな! ルーイだけ離れなよ!!」

「それひでえ!!」

 

「……まったく、いい女だな」

グレンがニヤニヤ笑い、セルゲイも、「エレナちゃんはほんとうにいい子だねえ」とほほ笑んだ。「そんな可愛いエレナちゃんに、あったかい紅茶でも淹れようかな」

「あ、俺はビールで」

「グレンはセルフサービスね」

 

「なんでエレナだけ抱っこなの! あたしもしてよ〜〜!!」

「ジュリイイイイイイイ!! あんたもかわいいよおおお」

ジュリがむくれたので、カレンは今度はジュリに抱きつく。

 

K35のマンションの一室は、今日も平和だった。