「君ではなくアンジェを妻にする。いいね?」

 サルーディーバは目を見張った。

 「ま、待ってください! 待って、そんな、アンジェはメルヴァが――!」

 

 「ほんとは、こんなに急ぐつもりはなかった」

 アントニオは顔をしかめて言った。

 「君たちに時間が必要なことくらい、俺だって分かってる。だけど――メルヴァたちは動き始めてる。もう時間がない。……かわいそうだけど」

 「お願い、アントニオ。妹には手を出さないで」

 あの子は、メルヴァを必死に思って来たの。愛しているの、メルヴァを。

 

 「俺は、アンジェも君も、――ルナちゃんも、大切だ」

 メルヴァに渡すわけにはいかない。……殺させるわけにも。

 

 サルーディーバはアントニオに縋ろうとしたが、カザマに止められた。

 「ま、待って! アントニオ!! 代わりに私が……!」

 「代わりって何」

 アントニオが悲しげに言った。

 「君は、妹の代わりに俺に身を差し出すの。俺はとんだ悪党だね」

 そういって、彼は店のなかに姿を消した。彼が、放心しているサルディオネを抱き上げ、二階に上がっていくのが見える。

 

 「アントニオ!!」

 「サルーディーバ様!!」

 カザマが、必死でサルーディーバを止めた。

 「シエハザールは、サルディオネ様を取り戻しに、奥殿へ入ったのです!」

 「――え?」

 「アントニオが貴女方おふたりを隠してらっしゃる。でなければとうにお二人は、メルヴァ様たちに捕えられています!」

 「それでもよいです! わたくしは……それでも! メルヴァの革命を私は助けます! アンジェリカだって、メルヴァに会いたくて――!」

 「冷静にお考えになってください!!」

 カザマは必死で訴えた。

 「メルヴァ様は、ルナさんを殺そうとなさっているのですよ!? あなたのために、……イシュメルのために! サルディオネ様を人質に、アントニオに、ルナさんを差し出せというに決まっているではありませんか!!」

 「な――そんな……」

 メルヴァは、そんな卑怯なことをする子ではない――サルーディーバは言いかけたが、

 「サルーディーバ様、メルヴァ様は、昔のメルヴァ様ではありません」

 カザマもまた、辛そうに言った。

 「貴女も同様です。あなたがメルヴァ様の元へ行けば、メルヴァ様は貴女と引き換えに、ルナの命を差し出せと迫るでしょう。アントニオに、あなた方とルナさんを天秤にかけるなんて、そんなむごい選択をさせたいのですか!?」

 サルーディーバは、打ちのめされて地面に座り込んだ。最早、立ち上がる力がなかった。

 

 

 ――数分後、ルナは、セルゲイとともに川原にいた。車に戻るより先に、セルゲイが、少し落ち着こうね、とひと気のない川原へ連れてきてくれたのだ。

 ルナはさっきのサルディオネほど派手に泣きはしなかったが、セルゲイの膝に乗っかって、えぐえぐと泣いた。

 

 「――はあ。……予言師って、厄介だなあ」

 セルゲイは、ルナの話を全部聞いてから、ため息をついた。

 「俺だったら、先が読めるなんて、ぜったい嫌だなあ」

失敗するのが見えたら、いろんなことができなくなっちゃうじゃないか、とセルゲイは言った。ルナは、さっきサルーディーバが言った話を、ぜんぶセルゲイにしてしまった。

 「まあ、グレンが聞いたら、躍り上がって喜びそうな話だけどね」

 グレンは、ずっとルナの傍にいてくれる、か。

 俺だってルナが好きなのにな。

 「……あたし、グレンのこと嫌いじゃないよ」

 どっちかというと好きだよ、ルナは言った。

 「でも、アズがもっと好きなの……」

 

 セルゲイは少し胸が痛んだが、ルナの兄位置を望んだのも自分だ。それは、簡単な気持ちではない。ルナを独り占めにし、閉じ込めてしまわないためだ。自分は、そんなに嫉妬深い性格ではないはずだったし、独占欲も強くはなかった。なのに、どうだ。ルナに会ってからは、自分にこんな執着があったのかと、呆れるほど強い気持ちに苛まれることがある。ルナにだけ向く独占欲だということは、もうとうに自覚していた。

 それが前世からくるものなのか――確かな答えなど、なかったけれど。

 ただ、思うのは。

今の自分では、まだ「ちょうどよく」ルナを愛せない。それがわかっているから、兄位置に甘んじた。

 その気持ちは、昨夜ルナを抱いたとしても、変わらなかった。

 かえって、その気持ちは一層強くなった。ひとたびこの子を抱いてしまったら、「また」閉じ込めてしまう。それを、思い知らされた。

 

 「あたしね、このあいだK36にいるとき、傭兵が来たでしょ」

 ルナは、スカートの裾をぎゅっと握っていた。

 「……ほんとはね、とっても怖かったの」

 声が震えていた。当然だ。怖くない方がおかしい。ルナは、ああいった危険とは、縁もゆかりもないところで暮らしてきたのだから。

 「でもね、アズの顔見たら、怖くないってゆっちゃうの」

 「アズラエルには? 怖くないって言っちゃうの?」

 「うん。だって、あたし、アズの奥さんになるから」

 「……」

 セルゲイは、微笑もうとして失敗した。ルナが川のほうを向いていて、自分のほうを向いていないのが救いだった。

 「アズの奥さんになるもの。あんなので怖いってゆってられないよ」

 「――グレンの奥さんは、もっと危険かもね。彼はドーソン一族だから」

 「……そうかな」

 「俺の奥さんは、安全だよ? だって俺はただの、お医者さんだしね」

 ルナが、なんとも言えない顔で振り向いた。少しは思い出しただろうか、セルゲイもルナを愛していることを。――妹としてではなく。

 

 「ね、セルゲイ、」

 ルナはふたたびセルゲイに背を向け、ぼーっと、川のせせらぎを眺めながら、言った。

 「あたしね、……おにいちゃんがいるの」

 「お兄ちゃん?」

 それは初耳だ。だが、なんとなくそんな気はしていた。ルナは一人っ子か妹だろうな、とは踏んでいた。

 「お兄ちゃんか。ふうん。……ルナちゃんのお兄ちゃんって、どんなひと?」

 「……うんとね、死んじゃったの」

 言ってから、ルナは慌てて付け足した。

 「っていうかね、あたし、お兄ちゃんがどんなひとか知らないの。あたしが生まれる一年前くらいに、事故で死んじゃったんだって。あたしがおにいちゃんのこと知ったのも、かなり大きくなってからなの。パパもママもね、ぜんぜんお兄ちゃんのこと教えてくれなかったから……」

 「写真も残ってないの?」

 「うん。……もしかしたら残ってるんだろうけど、あたしは見たことないの」

 「そうか……」

 そうかとしか言いようがなかった。

 「セルゲイとね、たぶんおんなじくらいの年なの」

 「俺と?」

 「うん」

ルナは、ためらうようにセルゲイのほうを見、

 「セルゲイ、昨日椿の宿に泊まったんでしょ? なんか変な夢見た?」

 

 そういわれて、セルゲイはやっと自覚した。そういえば、ルナが不思議な過去の夢を見たという、その椿の宿に自分は泊まったのだった。

 「いや――変な夢は、見なかった……かな」

 セルゲイは妙に赤くなって、ルナから目をそらしながら呟いた。変な夢は見なかったが、凄い美人のルナが現れてヤリまくったとは、やっぱりこのルナを目の前にしては、言えなかった。

 

 「セルゲイは――もしかしたら、ほんとはあたしのお兄ちゃんじゃない?」