「ええ?」

 あまりにも突拍子がなさ過ぎて、セルゲイは笑ってしまった。

 「何で笑うの」

 ルナがふくれっ面をする。

 「だって……俺がルナのお兄ちゃん?」

 「そう! だってね、セルゲイ、なんとなくパパに似てるもの」

 「ルナちゃんのパパと似てる? 俺が?」

 「うん。あたしはね、パパと髪の色が一緒で、ママ似なんだって。で、お兄ちゃんはママと目と髪の色が一緒で、黒色で、パパ似なの。パパもおっきいから、お兄ちゃんもおっきくなるよって言われてたんだって。パパの先祖が、地球時代に北欧とかロシアのほうにいたって。ね、だから……、」

 「残念だけど、それはあり得ないな」

 セルゲイは、きっぱりと否定した。

 「俺はね、誘拐される前は、おじいちゃんとおばあちゃんと、L6か7系の田舎に住んでいた。それは間違いない。断片的だけど、両親のお葬式とか、学校で友達とサッカーしてたこととか、覚えてるんだ。俺には妹はいなかった。両親は、交通事故で死んだ。それは間違いない」

 「……」ルナは、しゅんとしてしまった。

 「ルナは、――俺がお兄ちゃんだと嬉しい?」

 「うん……、嬉しい」

 ルナはためらいながらも、頷いた。

 

 セルゲイの胸に、罪もない一言が突き刺さる。男ではないと、言いきられたも同然だ。

 グレンのことでは悩むくせに、セルゲイは男の範疇に入っていないらしい。

 でも、それでよかったはずだ。それを望んだのは自分だったのだから。

 忘れるな、ルナは、妹だ。自分は兄位置に甘んじる。そうすることで、彼女の傍にいるのだ。

 ――でも。

 

可愛い子、無邪気な子――この、タチの悪い小悪魔。

 

ずるいこども。

悪意もなく、自分を引きつけておこうとする。

昨夜の――あのルナとなんら変わらない。

 けれど――どうしようもないくらい、愛してる。

 おかげでこっちは、胸が痛んでしょうがない。

 

 「――!」

 「黙って」

 

 セルゲイが、ルナの顎を持ち上げて口を塞いだ。

 

「――何するの」

「料亭 まさな」の二階の個室で、サルディオネがアントニオに唇を塞がれる。

 サルディオネが、――ルナが言った。

 「ヤダよ。……なんだかいつもと違う。やめて」

 アントニオがサルディオネを引き倒し、ルナがセルゲイの膝の上でもがく。だが体格差がありすぎて、抵抗らしき抵抗もできないままに拘束される。

 こんなにも、弱いのだ。男の力には敵わない。もがいても、逃げ出すことすらできない。

 こうなることがわかっているのに、こっちが優しい態度をとっていることに安心して。こんなにも無邪気にこちらを煽る。

 

 「や、やだ……っ!」

 必死で男の唇から逃れようとするが、彼らはいつもの優しい兄ではない。やめてはくれなかった。

 熱いキス。息遣いも生々しい、舌を絡めあう激しいもの。

 

 「――ふ」

 

サルディオネは、泣き腫れた目でアントニオを見上げた。目の前には、端正なアントニオの顔がある。「……アンジェ」アントニオは、サルディオネの、脱がせるにはややこしい衣装を引き裂いて、優しく微笑んだ。

「メルヴァのことは、忘れろって言ったでしょ」

あたしはメルヴァが好きなの。だからお願いやめて。そう叫んだ気がするが、アントニオは首を振った。

「忘れて」

忘れなさい。アントニオはもう一度言った。サルディオネの身体にまとわりついた布きれを一枚一枚、剥がしていく。

「いやだ――怖いよ」

顔を覆うサルディオネの頭を、アントニオは撫でた。柔らかく微笑む。

彼女は怖がっていた。男と、こういう関係を持つことを。それはトラウマでもなんでもない。だいたいの少女が持つ、繊細な恐怖だ。

彼女は、人一倍占術師としての知識は兼ね備えてい、世間も見知ってはいるが、生身の人間との関わりは、ルナより薄いだろう。

性的なことに関する恐怖も人一倍。

愛とはなんたるかを、高尚な言葉で説きながら――自身は、男を知らない。

それはサルディオネだけではない、サルーディーバも一緒だ。

 

「メルヴァはきっと、もっと怖いよ」

 

彼はこんなに優しくは抱かない。彼はもう、アンジェリカの知っている、昔の可愛いメルヴァではないのだ。彼は世の中の男がそうするように、己の飢えを満たすように彼女を抱くだろう。彼はそれだけの修羅場に身を置いている。それだけ、アンジェリカを欲しいと願う、一人の男になっているのだ。彼女には、それが全く分かっていない。

許嫁が手に入ったら、男だったら、することは決まっている。

だが、メルヴァは、ルナを殺すためなら、アンジェリカもおそらくその手にかける。自身の死すら、とうに覚悟しているのだから。

 

「――いや!」

「アンジェ」

アントニオは言った。これ以上なく柔らかな声で。

「いやならやめる。……本当に、嫌ならね」

 

サルディオネの目に迷いが浮かんだ。浮かんで、それは閉じられた瞼によって消えた。サルディオネは抵抗をやめた。アントニオが、サルディオネに口づけると、彼女の小さな体はビクっと強く怯えに揺れたが、もう拒絶はしなかった。

 

シエハザールは、おそらく、メルヴァの命でサルディオネを連れに来たのだ。アントニオは、サルディオネを抱きながら、そのことを反芻した。サルディオネは泣いている。初めて貫かれる痛みに耐えかねて。やがて、強張り続けたからだが弛緩して、サルディオネがすすり泣きを始めた。アントニオにしがみついて。

分かりはしないだろう、彼女には。比べるすべを持たない彼女には。自分が今、どれだけ欲望を押さえて、彼女を優しく扱っているか。

「愛してるよ、アンジェ」

俺の妻になって。アントニオは、何度目かしれないキスをした。何度目かで、ようやくサルディオネが応えてくれた。

 

 一頻り深いキスが終わり、ルナが目を開けると、男の顔をしたセルゲイがいて、ルナは怯んだ。

「……ほんとに、悪いコ」

セルゲイは辛そうな顔をして、ルナをぎゅっと抱きしめた。

 「愛してるよ、ルナ」

 俺の――可愛いルナ。

 ルナは腕の中で震えた。それはこたえではない。

 

 

 結局、セルゲイはタクシーを呼んで、ルナをひとりで帰らせた。車の中に二人きりになったら、帰せなくなるかもしれないからだ。ルナもそれを察したようで、黙ってセルゲイが呼んだタクシーに乗った。

 「ルナちゃん」セルゲイはルナの頭を撫でた。「いい子で、寄り道せずに帰るんだよ」

 「うん……」

 ルナは、タクシーの後部座席で、セルゲイの姿が見えなくなるまで、ずっと窓ガラスに張り付いていた。

 セルゲイはルナを見送ると、駐車場まで桜を愛でながら歩いた。

 ルナの唇。昨日のような桃の濃厚な香ではない。桜の花びらのような、淡い香。

 帰りのコンビニで、あの陽気な彼と話そう。セルゲイは思った。

 

 ――そうすれば、少しはこの切ない気持ちがまぎれるかもしれない。