「――すみません、変な話をして。あの階段、大変だったでしょ」

 「え、ええ。久しぶりにくたびれました」

 「どうせここまで上ったんですから、見て行かれませんか。絵は好きですか」

 「絵、ですか?」

 詳しくはないが、見るのは好きだというと、アントニオは微笑んだ。

 「よかった。真砂名神社の奥殿に、ギャラリーがあるんです。一般公開されてるんですけど、滅多に見に来る人いなくてですね……」

 

 

 アントニオの案内でセルゲイは、真砂名神社の横の参道を通り、奥まった神殿へと足を踏み入れた。セルゲイは、そういう気配などは全く分からないのだが、黙っていても清涼な空気が、肺に流れ込んでくる気がする。

 (……洗われてる気がするな)

 とても、清々しい気分だ。

 峻厳とした林の中に、時折聞こえる鳥の声。木々の間を縫って差してくる、柔らかな光。

 

「セルゲイさん、さっきは慌てちゃって、可愛かったですねえ」

 前方を歩くアントニオが、ぷくくと笑っている。

「え? そんなに慌ててました?」

「ええ。女の子に囲まれた経験、ないんですか?」

 アントニオのニヤニヤ顔に、セルゲイは至極真面目に、過去を思い出してみた。

 L19の軍事学校にいた時も、医者になって病院勤務していたときも、……とりあえず、モテる方だったと思う。バレンタインデーやクリスマスになれば、女の子に囲まれてプレゼント攻撃に遭っていた。

 「――あります」

 「え!?」

 「はい、あります。バレンタインとか」

 「チョコ……の数……」

 「段ボールひと箱――はあったと思います」

 セルゲイは素直に答えた。見栄を張ったつもりはない。いつも持ち帰るのが大変だったのだ。病院勤務だったから、ほとんど義理チョコの類だったろうし、自分もホワイトデーには、返すのが大変だった。セルゲイのこのセリフは、アントニオはもっとモテただろうな、と予想してのセリフだったのだが――。

めのまえのアントニオは、涙目になって暗い顔をしていた。

 「セルゲイさんだけは、友達だと思っていたのに……」

 「え? 友達でしょ?」

 「イケメンだけど、なぜかモテないっていう、同じパターンだと思ってたのにセルゲイさんのバカーーーーー!!」

 「え!? ちょ、アントニオさん!!」

 だーと駆けだしたアントニオを、セルゲイは慌てて追った。

 神社の奥宮は、すぐだった。ここにもたくさんの桜の木がある。

 「こっちです。カモン、イケメンドクターさん」

 ……なんだか、少し毒が入っていなくもない。

 

 アントニオは靴を脱いで、開け放たれた廊下の途中から神殿へ上がった。セルゲイもそうする。磨き上げられた木の床に、はらりはらりと桜の花びらが落ちてくる。

 美しいな。

 セルゲイは、自然と口もとがゆるんだ。

 「セルゲイさん、これは桜でなくて梅の木ですよ」

 「ウメ? あ、これがウメですか」

 桜と似てはいるが、匂いが違うし、よく見れば花弁のかたちも違う気がする。

 

 廊下は、大の大人二人が並んでも、余裕で歩ける広さだった。ギャラリーは廊下を曲がってすぐ。ギャラリーに入ると、急に天井も高く、廊下も部屋ほどある広さになった。壁の一面に、額に入れられた絵が飾られている。

 美しい絵画たちだ。セルゲイは、抽象画はあまり好きではないが、こういう本物の写真みたいな写実画は、わかりやすくて好きだった。

 「すごいな」セルゲイは素直に感嘆した。「美術館みたいだ」

 

「マーサ・ジャ・ハーナの神話をご存じですか?」

 「知ってます。地球時代の神話ですよね」

 「そ。ここの四十二枚の絵は、マーサ・ジャ・ハーナの神話をモチーフにした絵です」

 「へえ……。これは、油彩ですか」

 「そう。油彩。これらの絵を描いたのは、千年も前の名もない絵師ですが、一枚だけは、サルーディーバが描いた絵があるんです」

 「え!? 絵を描いたサルーディーバなんていたんですか?」

 「歴代のサルーディーバの中では彼ひとりだけ。もちろんレアですよ。絵をかくサルーディーバなんて、彼しかいなかったですもん。――さ、ここから」

 この絵には順番があるようだ。ちゃんとルートを示す矢印のプレートが壁につけられている。

 いちばん最初の位置にある絵は外されて、今はない。絵のタイトルだけ残されている。

 

 “真昼の神と太陽の神、夜の神と月の神”

 

 セルゲイがそのタイトルをじっと眺めているのに気付き、アントニオは声をかけた。

 「その話を知ってるの?」

 「ええ。……この絵、ないんですね。見たかったなあ」

 「修復作業中で、何枚かないんですよ」

 「そうなんだ、残念だな。――この話も有名ですよね」

 セルゲイは、記憶を掘り出した。

 「マーサ・ジャ・ハーナの神話は、昔、家にあった子供向けの本を読んだことが。有名な話だけ選んで載ってた、ちょっと厚めのやつ。でも、マーサ・ジャ・ハーナの神話っていっぱい話があって、それこそ全五十巻もあるっていう、壮大な神話ですよね」

 「そうだね」

 「この二枚目の話は、知らないなあ。読んだことない」

 二枚目の絵は、大きな白い鳥に乗って飛ぶ少年の絵だ。

 

 セルゲイは、一枚一枚の絵をじっくり見て回った。八枚目の絵でセルゲイは立ち止まる。

 「ああ、これ知ってる。最近また、リメイクされて映画になりませんでした? 八つの頭をもつ龍と戦う王子様の話。戦いの後はこの八つ頭の龍は王子様の強い味方になるんですよね」

 「マーサ・ジャ・ハーナの神話のなかじゃ一番メジャーかもね。俺も見たよ、映画。お姫様役の子がかわいかった♪」

 「ですよね。あの女優俺も好きです」

 セルゲイは、いつのまにか一人称が俺に戻っているのに気付かなかった。

 

 「……ほとんど知らない話ばかりだな」

 子供向けの本を読んだだけでは、知らない話があり過ぎた。たしか、十二話くらいしかあの本にはなかったはずだ。知らない話が多くて当然か。

 「あ、これも知ってる。東の名君の話」

 セルゲイはまた、一枚の絵の前で立ち止まった。

 

 この絵は、王様が、一人の少女の胸に剣を突き立てている姿が描かれている。後ろには兵士たちに押さえられ暴れる騎士と、子供を抱いて泣き崩れる女性の姿。

 

 「神話って、だいたいこんな話多いですけど、よく子供向けの本にこの話入れたよなあ」

 セルゲイは呆れた声で呟いた。この話も、セルゲイが昔読んだ子供向けの本にあったものだが、いわゆる男女の恋の縺れだ。こどもに読み聞かせるような話ではないと思うのだが。

 

 確か話の内容は、東の大国に名君と呼ばれる王様がいて、彼は戦争もない平和な時代を築いた名君だったが、ひとつだけ血なまぐさい逸話を持っている。彼にはとても愛した妾がいた。その妾は可愛らしいが、とてもわがままだった。それでも王様は彼女を愛していたが、彼女は王様の側近である騎士と通じてしまった。それで怒った王様が、妾を騎士の前で刺し殺し、騎士を処刑したという怖い話だ。

 

 「セルゲイさん、それ、ほんとにこども向けの本ですよね……?」

 「そのはずです。子供心に怯えながら読んだ覚えあります」

 普段おとなしい人がキレると怖いって、この話で学んだ気がします、とセルゲイが真剣な顔で言うので、アントニオは笑ってしまった。

 

 「いやあ、しかし……、」

 セルゲイは、王様の傍らで、子供を抱いて泣き崩れる女性を見ながら、神妙な顔をしていた。

 「不思議なんですよね。俺、まだこどもだったのに、妙にこのお妃様――たしか王様の二番目の正妻だ――に同情してた気がするんですよ」

 「へえ? 男の子がお妃様に? それは珍しいですね」

 「そう。俺、妹もいなかったのにね。このお妃様は確か、この殺されたお妾さんを妹みたいに可愛がってたんじゃなかったかな。――けっこう、覚えてるもんですね。で、王様に殺されちゃって、バカだなあとか、止められなかった自分を責めたかな、悲しかっただろうななんて、ずいぶん考えてた記憶があります」

 「ふうん。男の子がお妃様に感情移入って、珍しいな」

 セルゲイは、しばらくその絵に見入っていたが、やがて離れて次の絵に移動した。