ほとんど知らない話の絵ばかりなのは変わらなかったが、セルゲイは、一枚の絵のまえで足を止めた。

 この絵に、違和感を感じたのだ。

 「どうしました? セルゲイさん」

 「え? いや――」

 

 この絵は、ほかの絵がまるで写真か本物のような精密さで描かれているのに対し、同じ油彩だが、タッチが違う。

 白いライオンがお姫様を襲おうとしているのを、二匹のライオンと、神々たちが守ろうとしている絵だが、これだけイラストのよう、というか抽象的、といおうか、こどもが描いた絵のように見える。絵の具の剥落が進んで、全体的に絵がぼやけているせいだけではない。

 

 「ああ、それね」

 少し先を歩いていたアントニオが戻ってきて、説明してくれた。

 「この絵が、さっき言った、サルーディーバが晩年に描いた絵で、唯一の予言の絵だと言われています」

 「……予言の絵?」

 「そう。L03のサルーディーバというのは、予言師の頂点に立つ人間なので、予言をしないというのはあり得ないんですが、この百五十六代目のサルーディーバだけは、ある時期から、予言することをやめてるんです」

 「そうなんですか」

 「歴代のサルーディーバの中でも、有能な政治手腕を発揮した方で、いちばんL03から出ることが多かった人らしいですよ。基本的にサルーディーバというのは、一生L03から出たことないって人多いですから。彼の時代はL03が一番開放的で、いまより近代的だった」

 セルゲイは、アントニオの言葉に笑った。

 「だけどその分、保守派との対立が大きくてね。長老会たち保守派との大きな対立があった後、すぐ隠遁しちゃって、あとは絵ばっかり描いてた晩年だったらしいです」

 「なるほど……」

 「隠遁した後は完全に予言師をやめていた彼が、ゆいいつ描いた予言の絵、それがこれ、らしいです」

 

 セルゲイは改めて、この絵を見た。

 絵本の一ページのような淡い色彩なのだが――妙に迫力がある。

 

 「これって、去年修復をはじめてから、分かったことなんですけど」

 アントニオは、顎をポリポリ掻きながら言った。

 「もともと、ここにあったこの四十二枚の絵は、この地球行き宇宙船ができあがったときに、伝説の絵師と言われた人物が描いたものだったんです」

 「へえ」

 「何度か修復を施されながらここまで来たんですが、本格的な修復は、今回がはじめてなんです。X線とか使って細部までチェックしたりとかね。このあいだまで、この予言の絵も伝説の絵師が描いたものだと思われてたんです。でも、違ったらしくて、この絵だけは1290年代のものだとわかった。今が1415年ですから、百二十年くらい前のですか」

 「百二十年前……」

 「軍事惑星で言うと、第二次バブロスカ革命のころ」

 「……――?」

 セルゲイは、一瞬その言葉に違和感を感じたが、奇妙だという理由がつかめずに、その先のアントニオの話を聞いた。

 「予言の絵を描いた百五十六代目のサルーディーバは、第二次バブロスカ革命の時代のサルーディーバです。ここにあった四十二枚の絵は、本当はぜんぶ神話の絵だったんです。だれかが、この一枚を挿げ替えた。神話の絵と、サルーディーバの予言の絵を。挿げ替えられた神話の一枚は、L05で見つかったんです。マーサ・ジャ・ハーナの神話の絵で、同じタッチですし、年代も同じころ、おそらく、この四十二枚のうちの一枚だと」

 「……何の絵なんです?」

 「マーサ・ジャ・ハーナの兄弟。……船大工の兄と弟の話です。知っていますか」

 

 読んだ覚えがあるような、ないような。セルゲイは、急にこめかみがズキズキしてきた。

 

 「もっとも、この予言の絵のタッチこそ、こどものイラストみたいですが、百五十六代目のサルーディーバの描く絵もこれらの絵同様、とても写実的なんです。年代さえ調べなければ、この四十二枚も、サルーディーバが描いたと言っても頷ける。千年前の伝説の絵師と百五十六代目のサルーディーバ、彼らの絵はとてもよく似ているんです。……ここからは、ちょっと不思議めいた話になりますけど」

 「不思議めいた話、」

 「L03の高等占術師サルディオネのZOOカードの占いによると、伝説の絵師の生まれ変わりが、百五十六代目のサルーディーバだとか」

 「へえ……」

 そんなこともあるんですねえ、とセルゲイは呟いた。

 頭のズキズキが増してくる。どうしたのだろう、さっき急に汗が冷えたから、風邪でもひいたのだろうか。

 

 ――『大変です! 大変です! アレクセイ大佐!! ロメリア様が……!』

 『弟君が、仲間と、バブローシュカの政治犯を解放しようとしたんです!』

 『バブローシュカで弟君が捕まったんですよ!? よくそんなに落ち着いていられますね!』

 『ドーソン一族は裁判などする気はありません』

 『弟君と連絡が取れません。銃撃戦があったそうなんです。みんなもう死んで……』

 『おお、なぜロメリアが……!』

 『母上、落ち着いてください』――

 

 「アントニオさん、」

 「はい?」

 「さっき、……おかしなこと言ったでしょう」

 「おかしなこと?」

 「第二次バブロスカ革命は、1285年です」

 アントニオは、びっくり顔で固まった後、それから、穏やかな顔に戻って微笑んだ。

 「……よく正確な年をご存じで」

 

 「そうですね……。正確な年を知ってるなどあり得ない。第二次バブロスカ革命の事実は、すべてドーソンが消した。人も、記憶も、記録も」

 

 セルゲイは、ひどくいたむ頭を押さえながら、頭の中に響く声をぼんやりと聞いていた。

 

  ――『ロメリアの友人面をしてあの男は裏切った!』

 『だから、最初から反対だったんだ! ドーソンの人間を入れるのは……!』

 『グレンのせいで、みんな死んだ!』

 『ロメリアは死んでない! あのまま衛兵に引きずられてどこかへ――』

 『ロメリア様は、今どこに――!!』――

 

 「彼は、結果としてはロメリアを裏切ってしまったかもしれません」

 アントニオが、まるでセルゲイの頭の中に響く声を一緒に聞いているかのように、静かに言った。

「でも彼は、“グレン・E・ドーソン”には、役目があった。彼はサルーディーバとの約束を果たした。この宇宙船に乗って、この予言の絵をここに持ってきた。そう、百二十年のちの、貴方とルナちゃんのために――生まれ変わる、愛する友人のために」

 

 ――『あの男の裏切りのせいで私の弟は死んだ! ロメリアは死んだのだ! バブローシュカ監獄で!』

 あの、つめたい監獄で。

 バブローシュカ特別政治犯棟第二十二号八。

 弟が、死んだ場所。

 

――ああ、そうだったのか。

 

 “グレン”は、地球行き宇宙船に乗ったのか。

 そして、一年後の弟の命日と同じ日に、自分の書斎でピストル自殺した。

 まるで、弟の後を追うように。

 

 「アレクセイ・D・アーズガルド大佐」

 アントニオは静かに告げた。

 「あの“前世”で、ようやく“すべて”が終わったのです」