――夜の神よ。

 すべては、終わったのです。

 

 セルゲイは、自分ではないなにかが、滂沱の涙を流しているのを悟った。

 

 アレクセイ・D・アーズガルド大佐か。

 東の国の王様のお妃様か。

 プラハに母を持つ兄か。

 妻を失った若き伯爵か。

 経典を待っていた大本堂の高僧か。

 

 ――知恵おくれのあの子を引き取ったのに、大切にしようとしたのに彼女は、自分がちょっと目を離したすきに、道路へ出て車に魅かれて死んでしまった。

 

 また自分は、妹から目を離してしまった。

 目を離してはいけない。

 いつまたどこで、だれに傷つけられるかもしれない。

 私が守ってやらねば。

 閉じ込めなければ。

 ケガをしないように、傷つかないように、なくさないように。

 安全な場所に。誰の手も届かない自分の腕のなかに。

 

 愛らしく、そしてあわれな私の妹。

 

 ああ――月の女神よ。

 私の妹。

 

 「――セルゲイさん!」

 

 アントニオの声が、どこか遠くの方から聞こえる。セルゲイは、ガツンと床に後頭部を打ち付けた音を聞いた。

 

 

 「――大丈夫ですか、セルゲイさん」

 

 セルゲイが目を開けると、木材を交互に組み立てた天井が見えた。ずいぶん高い。

 

 「――……いっ!!!」

 思わず呻くほど、後頭部が痛かった。アントニオがおかしげに笑う。

 「セルゲイさんたら、思いっきり綺麗に真後ろに倒れるんですもん」

 冷蔵庫が倒れたみたいな音しましたよ、といって無邪気に笑うアントニオに、セルゲイは後頭部を押さえながらため息をついた。身長が高いと、衝撃も大きい。ぶつけた場所はコブになっていて痛いが、さっきのこめかみからくるズキズキ感は、なくなっていた。

 セルゲイは、外からの光だけでかなり明るい、畳敷きの部屋に寝ていた。布団を敷いた、その上に。

 ここは真砂名神社のギャラリーではない。病院でもなさそうだ。

 アントニオがここまで自分を運んでくれたのか?

 

 「コブになってるくらいで、異常はなかったでしたよ。でも、しばらく寝てた方がいいです」

 「……すみません。ここはどこです?」

 「椿の宿。旅館なんですがね、……今日、ここで飲もうと思って予約してたんです。ほら、ちょい右側見て」

 アントニオに言われて、首だけ動かして開け放たれた外を見ると、神秘的な光景が広がっていた。ライトアップされた夜桜の美しいこと。

 「……」

 すなわち、夜だ。

 「何時ですか」

 「九時ですね。今日はこの宿に泊まったほうがいいです。明日起きて気分悪くなければ、河原の花を見て帰りましょう。俺が運転していきますから」

 「……何から何まで、すみません」

 「いやいや。ご心配なく」

 「……」

 このあいだから、どうも調子が狂う。

 自分が、自分じゃないみたいだ。

 セルゲイは、長い腕で顔をかくし、ぼそぼそと言った。

 

 「――アントニオさん」

 「はい」

 「俺は――バーベキューパーティのことを一部、覚えてないんです」

 「……ええ」

 「さっきもそうだ。急に頭が痛くなって、……それから、何を言ったか覚えていない。……俺はなにか、あなたに失礼なことを言わなかったでしょうか」

 「言ってませんよ」

 アントニオは、安心させるように微笑んだ。

 

 「――俺は幼少期、誘拐されたことがありまして」

 セルゲイは、困った顔で桜を見ながら、静かに言った。

 「そのときのトラウマがまだ治っていない。……だから、そのことが原因なんでしょうかね。記憶障害になるのは……」

 「セルゲイさん」

 アントニオは、セルゲイの枕元に胡坐をかいて座った。

 「俺は今回、あなたとその話をしようと思って、誘ったんですよ」

 「俺のトラウマ話ですか」

 「いいえ、違います。さっきあなたは、何一つ俺に対して失礼なことは言わなかったですよ。――あなたの中で蘇った前世の記憶のせいで、あなたは倒れたんです」

 「前世」

 「よほど強烈な前世を持っているひとは、真砂名神社に来るとあなたみたいになることが多い。――階段、つらかったでしょ」

 「すごくつらかった。――何か、重い荷物でも運んでいるような、」

 「あなたの前世の重みですよ。それを背負って貴方は階段を上った。生まれ変わりを繰り返した魂ほど、その重みは大きい。……でも、あなたはよく本殿まで上がってこれた。感嘆します」

 「上に上がったら、すっきりしたんです」

 「真砂名の神が、浄化したんです。――貴方のつらい過去を。ギャラリーで、階段で浄化しきれなかった最後の前世が出てきたんですね。今は、すっきりしてるでしょ」

 「――さっきのは、第二次バブロスカ革命のころの人間ですか」

 「そう。貴方のひとつ前の前世。第二次バブロスカ革命の首謀者、ロメリアの兄の、アレクセイ・D・アーズガルド大佐」

 「そんなひと、いたんですか」

 「アレクセイの名は、調べれば普通に残ってるはずです。彼はアーズガルド家の長子でしたし、たしか何代目かの当主だったはず。彼の人生の後半は、弟と一族の汚名を雪ぐことで終わりました。ですが、L18の歴史にも、アーズガルドの家系図にも、アレクセイの名は残っていても、ロメリアの名は残っていない」

 「……」

 「これは、貴方の前世の一つですが、ずっとさかのぼるとですね、一番初めはマーサ・ジャ・ハーナの神話の夜の神、になるんですよ」

 

 「えええ!?」

 セルゲイはがばっと起き上がり、痛そうに後頭部を押さえた。

 「俺が――夜の神?」

 セルゲイが思ったのは、あの暗そうな神が私の前世? というあまり喜ばしくない思いだった。

 「で、ルナちゃんが月の女神だとしたら?」

 「……悪くないですね」

 たしか、月の神は夜の神の妹でもあり、妻神でもあったはず。

 

 「ルナちゃんセンサーってやつですよ」

 「ルナちゃんセンサー、……このあいだも、そんなことを」

 「貴方を困らせているのは、あなたの前世である、夜の神です」