家の執事の息子のパンダさんは、心ひそかに美しいウサギさんを想っていましたが、身分違いも甚だしい恋です。パンダさんが自分に憧れていると知ったウサギさんは、パンダさんの両手を握って言いました。

 「お兄様に内緒で、私をある場所に連れて行って」

 お嬢様からは、話しかけてもらったこともありません。パンダさんは幸せで昇天しかけました。でもこのパンダさんは賢く、良識ある執事の息子でした。

 「いけません、お嬢様」

 一度は断りましたが、うさぎお嬢さんの柔らかな唇が頬に触れたときから、彼はウサギさんの言いなりになりました。パンダさんは、銀色のトラさんが待つ秘密の屋敷へ、お嬢さんを連れて行きます。愛するお嬢さんは、そこでトラに抱かれるのです。パンダさんは、その小一時間――慌ただしくも長い時間を、胸がつぶれるような思いで待たねばなりませんでした。自分の愛するお嬢さんは、この屋敷で、ほかの男の腕の中にいるのです。雨の日も、嵐の日も、パンダさんはみじめさに打ちひしがれそうになりながら、お嬢さんの手助けをしました。お嬢さんを腕に抱けるトラさんを、殺してやろうかと思ったこともありました。

それが十数回繰り返され――やがて、トラさんは戦地へと旅立ちました。

 

 兄のライオンさんも、戦地に旅立つ日がやってきました。兄のライオンさんは代わる代わる猫の姉妹を抱きしめ、そして、一番愛しい妹うさぎをきつく抱き、まるで畏れ多いものに口づけるように、彼女の小さな手に口づけました。何も知らなかった妹ウサギが、兄の熱い思いに気付いたのは、これが初めてだったかもしれません。

 

 屋敷の主人である兄がいなくなり、屋敷からはひとり、ふたりと人が消えました。戦時中でもありましたし、いつこの町も空襲を受けるか分かりません。うさぎさんたちの父親とキリンさんは、とっくに国外へ逃亡していました。うさぎさんは、この屋敷に残ると決めました。

 この屋敷には、兄が帰ってくるかもしれないし、戦争が終わったら、トラさんが訪ねてくるかもしれない。うさぎさんは、よそへ行く気はありませんでした。

 執事も去り、この家にはうさぎさんと乳母の黒猫、パンダさんだけになりました。

 戦争も激しくなり、空襲もひどくなりました。戦況は悪化、ウサギさんたちのいる国が劣勢になってきたのです。

 

 黒猫の乳母は言いました。

 「お嬢様。ここはもう食料もありませんし、みんな疎開しています。パンダさんが言っているのですから、彼と結婚して、彼の田舎に一緒に行きましょう」

 うさぎさんは、恐ろしいことを言われたかのように、猛然と首を振りました。

 「いやよ! あんなパンダと結婚しろというの!」

 ウサギさんが愛しているのはトラさんです。ましてや、そんな田舎に引っ込んで、下僕のパンダと結婚するなんて、ウサギさんは真っ平でした。姉の言葉が頭に響きます。

 

 ――結婚は人生の墓場よ!

 

 パンダさんは、ウサギさんの強い拒絶を聞いて、ショックでよろめきました。愛しいお嬢さんだったから、わがままも聞いてこの屋敷に残ったのです。この町は、国の中でも危険な場所。いつ、大規模な空襲が始まるかもわからないのです。食糧不足の中、パンダさんは闇市で食料を手に入れ、自分は食べなくても、うさぎさんにだけは食べさせていました。

 ひどいお嬢さん。でも、愛しいウサギさん。

パンダさんは、それでも、可愛いお嬢さんを見捨てることはできませんでした。でも、どうにもならない事態になりました。パンダさんも、戦地に駆り出されることになったのです。

 男手がなくなった家は危険です。黒猫さんは、何度もうさぎさんを説得しましたが、うさぎさんは動こうとしません。もう限界でした。黒猫さんにも家族があります。黒猫さんは、姉の猫さんたちに、うさぎさんをお願いしますと言って、田舎に逃げました。

 

 ついに、大空襲の日が来たのです。

 

 姉たちは、妹を助けに街へ行こうとしましたが、自分の実家があるその街は、一番空襲がひどいところ。空襲がはじまると町は火の海になり、逃げ惑う人々であふれ、もはや、助けに行くすべはありませんでした。

 

 一番上の青い猫は、執事や家のみなと、地下室で夫の手紙を握りしめて、震えていました。夫の椋鳥さんは、たくさんの手紙を戦地から寄越しました。そのどれもが、青い猫さんを気遣うものばかりでした。

 わたしはライオンさんを忘れられなくて、彼に辛い思いをさせたけれども、椋鳥さんが帰ってきたら、今度こそ幸せな家庭を築こう、と心から猫さんは思いました。

 

 二番目の赤い猫は、旦那の腕の中で震えていました。地味で目立たない夫が、どれだけ賢く、素晴らしい夫であったか、今頃気づいたのです。夫のシェパードは、食糧難になってからもほとんど家族を飢えさせはしませんでしたし、さっさと家族を疎開させ、妹のために残ると言った赤い猫さんと一緒にいてくれました。パンダさんが戦地に行った後、妹ウサギも飢えずに済んでいたのは、夫のお蔭です。

 「君は俺が守る。心配しないで」

 赤い猫さんは、頼もしい夫の腕で泣きました。

 「明日になったら、ウサギさんを探しに行こう」

 

 三番目の七色猫もまた、夫とともに空襲の町中を逃げ回っていました。もう、嫁ぎ先であるチワワの家族とは、離ればなれになってしまいました。チワワの夫は、病弱なために戦地にはいきませんでしたが、七色の猫をいっしょうけんめい火の粉から庇ってくれました。

「だいじょうぶだよ。あと少しがんばろうね」

シェパードさんの家の、地下室まであと少し。自分の手を引いて走り出す夫が、七色の猫さんははじめて頼もしく思えました。この人と結婚してよかったのだと、はじめて七色の猫は思いました。

 

 ウサギさんは、屋敷の隅で、震えながら蹲っていました。焦げ臭いにおいが鼻につきます。屋敷が、燃えだしたのです。

 ああ、もうあたし、ここで死ぬのね……。

 だれかが、うさぎさんを呼んでいます。なつかしい声でした。うさぎさんも叫び返しました。「あたしはここよ!」

 軍靴の音。ウサギさんの名を何度も呼ぶ声。なつかしい顔が、めのまえに現れました。うさぎさんは嬉しくて泣きました。帰ってきてくれたのです、彼が――。

 「……助けに、来てくれたの?」

うさぎさんは涙を流し、彼と、固く固く、抱き合いました――。

 

 大きな空襲が終わって夜が明け――町は廃墟になっていました。三匹の姉猫たちは、なにもなくなってしまった街に、呆然とたたずみました。青い猫と、赤い猫とシェパードさん、七色の猫とチワワさんは、姉妹の実家に来ていました。ですが、もう実家はありません。昨夜の空襲で燃え尽きてしまったのです。姉たちは妹を探しました。やがて、屋敷の真ん中あたりで、ふたりの遺体が見つかりました。黒こげになっていて、だれだか全く分かりませんが、小柄な方は、ウサギさんでしょう。

 

 では――彼は?

 

 もうひとりの大柄な身体が、ウサギさんを守るように寄り添って、倒れています。

 誰なのでしょう。

 一番上の青い猫は、最後まで一緒にいたパンダさんだと言い、二番目の赤い猫は、ウサギさんを愛していた兄のライオンさんだと言い、七色の猫は、絶対に銀色のトラさんだと言いました。体格的にも三人は、同じくらいでしたから。

おかしな話です。彼らは皆、戦争に行っているのです。

でも、ほかに思い当たる人物などいません。

 

 戦争は終わりました。

兄のライオンさんと、執事の息子のパンダさん、銀色のトラさんの死亡通知が届きました。彼らは戦地で死んだのです。でもこの死亡通知は、まちがいということも多くあります。

青い猫さんの夫の、椋鳥さんは帰ってきました。青猫さんがかつて愛した、賢いライオンさんは、戦地で死にました。

不思議なことに、その後、猫さんたちは夫の子供をつぎつぎと生みました。可愛い子猫と子犬たちを引き連れて、姉猫たちは、妹ウサギと兄ライオンの墓参りに毎月訪れます。

猫たちは、妹と一緒に死んだ、誰か知らない男性を、一緒にお墓に埋めました。

一番上の青い猫は、パンダさんだと思い、二番目の赤い猫は兄のライオンさんだと思い、七色の猫は銀色のトラさんだと思っています。

 

 でも結局のところ、彼が誰かは、うさぎさんしか分からないのです。