「――ねえ、クラウド」

 「なに? ミシェル」

 笑顔で子猫に振り返ったライオンは、全身の毛が怒りに逆立っている子猫を見て一瞬怯んだ。背中にいやあな汗が流れた。

 

 ――なに? 俺、何かした?

 

 「ミ、ミシェル……?」

 「あたしがなんで怒ってるか分かる? ……分かってないよね、その顔じゃ」

 「ご、ごめん……分からない」

 クラウドは素直に謝った。本当に分からないときは、よけいなことは言わないに限る。

 でも――なんだろう。本当に心当たりがない。まさか、ミシェルも、ルナたちと一緒に旅行に行きたかったのだろうか。

 「で、でもね!? ミシェル、今回は俺は噛んでないよ? 俺だって、昨日までアズが旅行に行くつもりだなんて知らなかったんだ! 行先だって、聞いてないし――」

 やはり、よけいなことはいうべきではなかった。クラウドの予想は外れた。

 子猫はピー! と鳴り響くケトルのように噴火した。

 

 「そうじゃないっ!! もうっ!! クラウドのアホたれ!! すっかり忘れてんだからっ!!! もー許さない!! この、キー!!!!」

 「ミシェル! 痛い! 引っ掻かないで!」

 子猫に引っかかれたライオンは、自室に、這う這うの体で逃げ出した。

 

 「――忘れてたわけじゃないんだよ」

 クラウドは、真っ赤な紅葉を頬に咲かせ、(ミシェルの平手の跡。)子猫のひっかき傷あとに絆創膏を貼りながら、呟いた。子猫は憤慨して、クラウドに背を向けたまま、返事もしてくれない。

 「今はさ、アンジェラは大きな仕事をしてるから、気が立ってて、とてもじゃないが君を傍に近づけられる状況じゃない」

 いまの君みたいにね、という言葉を辛うじて飲み込んでクラウドは言った。

 

 「じゃあ、いつになったら紹介してくれるのよっ!!」

 また引っ掻かれそうになったクラウドは、慌ててクッションで防御して、言った。

 「ま、待って! だからちょっと落ち着いて、ミシェル、」

 「アンジェラに紹介してって言って、あんた、うんって言ったでしょ!? それ、今年の一月だよ!? もう四月!! 分かる!?」

 「わ、分かってます。分かってるよ……、」

 「アンジェラが仕事なら待つわよ! だけど、ダメでも、オッケーでも、アンジェラが仕事なら仕事って、教えてくれるのが筋じゃない!? ねえ!!」

 なんにも教えてくれないなら、忘れてるって思うじゃない! 

 ミシェルは、クッションでクラウドをぼふぼふ叩く。クラウドはあっさり降参した。

 「ご、ごめん。ほんとにごめん……! 言葉が足りなかったのは謝るよ……」

 なんとか子猫の猛攻から逃げたクラウドは、立ち上げっぱなしだったパソコンの画面を、ミシェルに見えるように向けた。

 「ミシェル、これ。これ見てごらん」

 不機嫌な子猫は、クラウドの胸ぐらをつかみあげていたが、眇目でパソコン画面を睨み――それから飛びついた。

 

 「え!? えっ!? ええ!? 何コレ、何コレ!! ――アンジェラのガラス教室!?」

 「――そ」

 クラウドは、ようやくつかみあげられていた胸ぐらを解放され、息を吐いた。

 「六月開催で、一日だけの限定講習。経験者かどうかは問わないみたい。君が望んでるような本格的なものではなくて、体験学習みたいなのものだけど、作った自分の作品だけじゃなく、アンジェラの作品も記念に持って帰ることもできる。人数は二十人限定。もう募集が始まってる。抽選だよ」

 「え!? じゃあ早く応募しなくちゃ――!」

 「心配いらない。君はもう、その二十人の中に入ってる」

 「ええ!?」

 「ララに頼んでおいた。ララが選考委員長だから」

 

 「クラウド!! ありがとう〜!!!!!」

 

 やっと子猫が機嫌を直してくれた。クラウドの首根っこに飛びつき、今度はキスをくれた。熱いやつを一発。クラウドはほっとして、ミシェルからのキスを大歓迎で受けた。

 「――ねえ。ミシェル」

 ミシェルがいつになく上機嫌で、ゴロニャンと擦り付いてくるので、クラウドも嬉しかった。さっき引っかかれたことは、すっかり棚の上の上に上げた。

 「俺たちも旅行しない?」

 「……え!? あたしたちも!?」

 ミシェルが、クラウドの膝の上でぴょこんと顔を上げた。彼女が猫だったら、シッポと耳がぴこぴこ動いているだろう。

 「そ。ルナちゃんが言ってたじゃないか。真砂名神社の奥にギャラリーがあるってこと。結構古い遺産なんでしょ?」

「――言ってた! あたし、ルナと見に行こうって思ってたもの!」

 

――そう。俺とじゃないんだ……。

ほんとミシェルって、俺 < ガラス工芸&友達……だよね。

 

クラウドはすこーし沈みかけたが、結局は、自分と行くことになったのだから、よしとしよう。

「ミシェルも椿の宿、行ってみたいって言ってたよね? ――どう? まずはK05に行って、それから、美術品を巡るツアーとか?」

 「いくいく!! 行きたい!!」

 ミシェルが目を輝かせるのを見て、クラウドも満足げに微笑んだ。

 前述したが、クラウドは本当に、アズラエルとルナの行先を知らなかった。一か月ほど、この宇宙船のあちらこちらを回ってくる、と聞いただけだ。彼らが今日、椿の宿に向かっている、なんてことも当然知らない。

 「じゃ、明日の朝出発、でいいよね?」

 「うん! じゃあ荷造りしちゃおっと!」

 「まだ早くない?」

 クラウドは言ったが、よほどうれしかったのか、ミシェルは大喜びで寝室のほうに駆けだしていく。まあ、ミシェルが嬉しいならいいや、とクラウドも上機嫌でパソコンを閉じた。

 

 

 

 ミシェルが大喜びで荷造りしているころ。まだ、ルナたちがジュリたちの部屋に来る数時間前である。ジュリは学校で、一つの用紙を渡された。前の席から順番に、ジュリの教室の全員に、それは配られたわけである。

 「はいはい。皆さん! おしゃべりはやめて、お手元の用紙を見てください」

 先生は言った。ジュリは最近、だいぶ字が読めるようになってきた。

 (アンジェラの――ガラス、こうげい、教室?)

 「六月に、彫刻家として有名な、アンジェラ・D・ヒースさんのガラス工芸教室が開かれます。一日だけの体験学習の会です。有名な先生ですからね――抽選なんです。もしかしたら抽選に当たるかもしれませんので、行ってみたい方は、その用紙に名前を書いて、提出してください。連絡事項は――以上です。では今日の授業はこれで終わりです。来週までみなさん、さようなら!」

 みんな、挨拶をして教室を去っていく。誰も用紙は提出しない。ほとんど見もせずに鞄に詰め込んで、帰っていく。ジュリは用紙を持って、教壇のほうへ行った。

 「せんせ、」

 「なんですかジュリさん」

 「これさ、絵とか描く教室? あたしの名前じゃなくてもいい?」

 「ジュリさんのお友達で、好きな方がいるの?」

 「うん! エレナが絵を描くのが好きなんだ!」

 「これは、ガラス工芸と言って、絵を描くのとは違いますけど、お友達は、そういう芸術関係が好きなひとなのね?」

 「うん!」

 「お友達の名前でもいいですよ。でも、有名な方の教室だから、当たらなかったら行けないわよ」

 「それでもいいよ」

 ジュリは、用紙にエレナの名前と、連絡先の電話番号を書いた。ジュリとしては、全く、好意のつもりだった。最近、エレナは身体がだるいと言い、ほとんど部屋を出ていないこともあって、気が滅入っていた。

 ジュリは、エレナにもなにか楽しいことを始めてほしかった。ジュリは学校に来はじめて毎日が楽しいし、だから、エレナにもなにか習い事を始めてもらいたかった。そうすれば、憂鬱もなくなるかもしれない。エレナの憂鬱は、妊娠からくる体のだるさが主な原因だったのだが。

 ガラス教室は六月。五月末に出産予定のエレナである。生まれたばかりで、抽選にたとえ当たったとしても、行く余裕などあるわけはないが、そこはジュリである。そんな配慮が、彼女にできるわけはなかった。

 「当たったらいいな!」

 「そうね。当たったらいいわね」

 エレナの状況を露程もしらない女教師は、用紙を受け取って、ジュリを見送った。

 「では、申し込んでおきますね。当たったら、電話がいきますから」

 「わかった! じゃあせんせえ、またね〜〜!!」

 先生にバイバイと手を振り、学校を出て、迎えに来ていたカレンの車に乗ったところでジュリは、ガラス教室のことをすっかり頭からなくしてしまったのであった。