ルナが目を凝らした地平線の向こうには、紛うことなき海が見える。雲がかかって、うすぼんやりとだが、青い水面が。

 

 「この宇宙船、海があるの!?」

 「知らなかったのか?」

 アズラエルが驚いてルナを見た。

 「無理もないさ。けっこうみんな、知らなかったよ。エレナちゃんも、ここから海を見せたらびっくりしてた。ほら、宇宙船の入り口の裏っかわだからね。意外と気づいてないんだよみんな」

 「だっておまえ、ルナ、船内の地図見てたろ?」

 「ほええ……海だあ……」

 「聞いてねえな。このチビウサギは」

 宇宙船入口の街K15は、この宇宙船に搭乗したときと、ナターシャたちを見送った時にしか行ったことはない。パンフレットに載っていた地図は見たが、居住区のほうばかりしか見ていなかった。海があったなんて、知らなかった。

 

 ルナが海に見惚れているのを放って、アズラエルはレオナに聞いた。

 「どうだ。メシは食えてんのか」

 「ガンガン食ってるよ」

 「……ならいい。心配するだけソンしたな」

 「なんだいその言いぐさ」

 あたしにだって、つわりぐらいあるさ! とレオナは威張って言った。

 アズラエルは、紙袋に入った焼きたてのタルトと、レモンゼリーをレオナに渡した。

 

 「なんだいコレ!? アンタが作ったの」

 レオナは、袋をのぞき、目玉が零れそうなくらい見開いて、びっくりした。

 「おう」

 「――あんたが!? そのでかい指で!」

 「指のでかさは関係ねえだろ」

 「うさこちゃんが作ったのを、あんたが作ったって言ってんじゃないだろうね」

 「ち、違います。アズが作ったの」

 ルナが慌ててフォローすると、レオナはやっと信じたようだった。

 

 「あんたに、こんな可愛げな趣味があるとはねえ……」

 「礼が先だろ。いらねえのか」

 アズラエルが引き戻そうとすると、レオナは奪い返した。

 「最近、妙に甘いモンばっか食いたくてね」

 ウキウキとレオナは、タルトを持ってキッチンに行った。

 「おい! 俺らの分はいらねえぞ。自分の分だけ切れよ」

 「いいのかい? じゃあ遠慮なく。……こないだ、エレナちゃんとヴィアンカと、ケーキバイキングに行ってさ、」

 レオナは、三十センチはあろうかというホールのタルトを、豪快に半分に切って、皿にのせて持ってきた。

 「エレナちゃんも細いわりに食べること! なんだか知らんけど、あたしもヴィアンカもエレナちゃんも、妊娠してから甘いものが欲しくてさ、信じらんないくらい食べるんだよ。三人で、ケーキ食いまくってきたんだ」

 「おまえらの食欲でケーキ屋潰れたろ」

 「バーガスと一緒で、小憎たらしい口を利くね」

 傭兵が包丁持ってるときに悪態つくんじゃないよと言われ、アズラエルは肩をすくめた。

 

 ルナもアズラエルも、呆然とレオナを眺めていた。大きなタルトが、瞬く間に消えていく。ショートケーキサイズの一辺が一口で消えていくのだから、それは大した食欲である。

 

 「あたし、そんなに甘いモン好きじゃなかったんだけどねえ」

 レオナが二三、喋っている間に、タルトは消滅した。

 「旨いよアズラエル! 桃のタルトってのもなかなかいいね! また作ってよ!」

 「……喜んでもらえてなによりだ……」

 満足そうに腹をさするレオナに、アズラエルは完全に胸焼けした声で答えた。

 

 

 レオナの、喋りつづけたら止まらないマシンガン・トークがいったん落ち着いた一時間後、アズラエルとルナは隙を見て、おいとますることにした。

 「ねえ、またバーベキューパーティーやろうよ! エレナちゃんの出産が終わったころにでもさ、」

 エレナの予定日は、五月の末ころだ。

 「いいな。夏近くなったら、もう一回計画してみるか」

 「そうこなくっちゃ!」

 レオナはアズラエルの背中をバン! と叩く。アズラエルが「げほっ!」とすごい勢いで噎せた。

 レオナは一緒に降りてきて、アズラエルとルナの車が駐車場を出るのを、見送ってくれた。

 「……なんつう妊婦だ。あいつ、妊娠してからますます凶暴になった気がするぜ……」

 アズラエルは車に乗ってもまだ咳き込んでいた。ルナは大笑いした。

 ルナの機嫌はすっかり、直っていた。

 

 

 アズラエルが次に寄ったのはK34区。高架下にある古びたバーだ。ネオンは昼間はついていなかったが、夜になればさぞかし煌びやかになるだろうことは、ルナにも予想がついた。電飾が壁いっぱいに張り付いている。女の人の裸の形のネオン。「RAGER」と書いてある。

 ルナは、ラガーに来たのは初めてだ。

 アズラエルは道路わきに車を止め、紙袋を取り出して、助手席のルナに聞いた。

 「ここで待ってるか?」

 「ううん。一緒に行く」

 

 ルナも下りて、アズラエルのあとをついていった。なんとなく、このあたりは寂れた雰囲気で、昼間なのに怖い感じ。ルナは車の中に、ひとりでいたくなかった。このあたりは飲み屋界隈で、昼間だから人気がないのが幸いしているが、夜はほんとうに怖いかもしれなかった。

 木のドアを開けると、ガラン、ガランと派手な音がする。中は昼間なのに薄暗くて、にぎやかなジャズが低音量で流れていた。夜だけではなく、昼間も営業しているのか。厚いカーテンで仕切られた中には、わずかだが人の気配がある。

 

 「おい、オルティス、いるか!?」

 カウンターでアズラエルが声を張り上げると、奥のカーテンのほうから、相変わらずとびぬけてでかい店長が現れた。

 「よお、アズラエルじゃねえか。――お?」

 ラガーの店長、オルティスは、トレイに乗せたグラスをカウンターに置き、アズラエルの後ろにちょこんと佇んでいるルナを覗き込んだ。

 「うさこちゃんじゃねえか〜〜」

 悪党面が、デレン、と笑顔になった。ルナも、大概コワモテ面には耐性がついてきたが、やっぱり笑顔すら迫力がある。ルナは負けじと、大きな声で挨拶をした。

 「こ、こんにちは!」

 「おう。こんにちは。初めて、俺の城に来てくれたなあ」

 オルティスは、やはりルナを持ち上げて高い高いをしたあと、ルナをカウンターのスツールにぽて、と置いてくれた。ルナは助かった。このスツールはずいぶん高くて、ルナはたぶん、よじ登らなければ座れなかったろう。

 オルティスは、何を呑むかと聞かずにカウンターの奥へ行き、黒ビールの瓶をあけ、グラスに注ぐとアズラエルに出した。「うさこちゃんはちょっと待ってな」と言い、調理場のほうへ入っていく。