クラウドの名残惜しそうな視線をよそに、ニックは翼をたたんだ。不思議だ。あれほど巨大な翼がどこに納まっているのか。ニックの背中に、吸い込まれるように消えていく。ニックの着ているTシャツは、ご丁寧にも羽が出せるよう、背中に二か所、切れ目が入っていた。

「はい」魔法のように、ニックの手には一枚の羽根が残される。「今日の記念に」

クラウドは、手渡された羽根に大喜びだった。

 

「ギャラリーは、あっちが入口だよ。見に行ってみたら?」

ニックの翼ショックで、ほとんど全員が絵画のことを忘れていた。ニックが指さした先には、奥殿の大きな建物があり、廊下へ上がる小さな階段が。そして「順路」と書かれた立札があった。

「見てきなよ。古い順に、絵が並べられているはずだから、」

 

グレンは一人、首を傾げていた。

(――昨日の夢で、この風景を見た気がするんだが……)

見回すが、やはり夢の内容は思い出せそうにない。断片的には出てくるのだが。

夢の中でさっきの長い階段を上り――ここへ来た。

たしか夢の中でも、ここは立ち入り禁止になっていて、草ぼうぼうの荒れ放題だったはず――だが、めのまえのギャラリーは、綺麗に掃除されて蔦など張っていないし、工事後というだけあって、廊下は新たに塗られて鮮やかな朱、柱の金箔も、剥がれてなどいない。傷一つなく、艶やかに光り輝いて、陽を反射している。この庭も整備され、花や植物は剪定されている。日々、人の手が入っているのは一目瞭然だ。

(ここで、なにがあったんだっけ……)

思い出せそうで、思い出せない。

 

「あ、ミシェル、そっちじゃないよ」

ルナの声に、グレンははっとそちらを見た。自分たちがいる庭の真正面の回廊だ。「順路」と書かれた立札がある方ではなく。

この回廊はすべて外に面しているので、どこからでも入ることができる。

ミシェルは真正面の回廊へ、ふらふらと寄っていく。一枚の絵に引きつけられて、そちらへ行ったのはあきらかだ。

 

ミシェルが向かった絵は――。

 

(あの絵は)

グレンも見た。夢の中に出てきた。

――たしか、二匹のライオンがお姫様を襲っている絵?

 

「ミシェル〜! どうしたの?」

ルナが呼ぶが、ミシェルはまったくルナの声が聞こえていないかのように、その絵に歩み寄っていく。ミシェルの目は、その絵から一秒たりとも離れない。

「ミシェル……?」

グレンも、ミシェルのほうへ足をすすめた。その絵をちゃんと見たかったのだ。その絵を回廊の外から眺め、グレンは自分の間違いに気づいた。

 

(二匹のライオンがお姫様を襲ってンじゃなくて、守ってるのか。……白いライオンから?)

廊下の外からでは光の加減で暗がりになり、良く見えないが、やっとその絵の全容が視界に入った。姫を白いライオンから守る、二匹のライオン、そして姫の背後で両手を広げる夜の神と昼の神。どこかを指さす、太陽の神。

ということは、あれは姫じゃなく――月の女神か?

(不思議な絵だ)

 

「ミシェル、どうしたの?」

さすがに不審に思ったクラウドと、みなもこちらへやってきた。グレンも、ミシェルの様子がおかしいのにようやく気付いた。ミシェルはじっと絵を眺めつづけ、やがて、その両手をぺたりと絵に付けた。

「あ、ミシェル、触っちゃダメだよ!」

ギャラリーの絵は、お触り禁止と立札がついている。ルナの言葉は届いていない。ふいに、ミシェルが振り向く。その目は、まっすぐにグレンを見た。

 

「“ごきげんよう。グレン君。――百三十年ぶりだね”」

 

だれもが聞いた。ミシェルの口から出た、「男」の声を。

 

「“いよいよ、さだめは動き出す。百三十年の時を経て。――グレン君”」

 

ミシェルはにっと笑った。

「“忘れてはいけない。君の役目は、終止符を打つことだ”」

だれもが、呆気にとられてミシェルを見つめた。ミシェルの声とは似ても似つかない低い男の声が、彼女の口から出てくるのだ。

 

「“鍵を、大切にね”」

 

「ミシェル!!」

クラウドが倒れ込んだミシェルを、慌てて抱きとめた。

ゴロゴロ……、と地鳴りが響いたかと思うと、それに呼応するように、空が一気に曇りだす。

「これはひと雨来るな」

ニックが言ったのと同時に、バケツをひっくり返したようなどしゃ降りになった。

「うきゃー!」ルナが大雨の中で、わたわた、ウロウロと動き回る。

「ミシェル! だいじょうぶ!? しっかりして!」

クラウドがミシェルの頬を叩くが、ミシェルは気絶したまま目覚めない。

「クラウド君。ミシェルちゃんはだいじょうぶだから寝かせておきなさい。とにかく、雨宿りしよう」

ニックが冷静に言った。

「この雨じゃ、この回廊にいても濡れるな。おい、さっきのジンジャまで走るぞ」

「――そうだね」

クラウドはミシェルを抱きかかえ、アズラエルはウロウロうさぎをとっ捕まえて、担ぎ上げた。

「おい! グレン、何してんだ、」

ニックとクラウドが走り出したが、グレンはあの絵を見つめたまま動かない。

「先に行ってろ」

「……? 分かった」

ものすごい雨で、グレンのつぶやきは半分聞こえなかった。だがグレンは、この雨の中に二、三時間いたって、風邪を引くようなヤワな男ではない。アズラエルはルナを担ぎ、雨の中を走った。

 

グレンは、口の中にも水が入ってくるようなどしゃ降りの中、絵を見つめ続けた。

(ちくしょう……、ぜんぜん思い出せねえ)

自分は昨夜、夢を見たのだ。とても重要な内容の夢を。なのに、まるで思い出せないのだ。

 

“鍵を、大切にね”

 

夢のなかでも、それを言われた気がする。

そうだ――。百三十年前のサルーディーバが言ったのだ。グレンの夢の中で。

さっきミシェルの口から出た声は、あのサルーディーバの声だ。

俺は、夢の中でなにをしていた? ここで、何をしていた。

鍵とはなんだ。

その秘密は、この絵に隠されている。

 

(そうだ、俺は、夢の中でこの絵を見た)

――分からない。

 

「クッソ……! なんで忘れたんだ、このバカ!」

自分の頭を拳固でゴツンとやってみたところで、思い出すわけもなかった。

 

 

……サルーディーバは、毎日必ず、この奥殿で祈る。

今日はやけに騒がしかった。奥殿廊下のギャラリーに、だれか来ていたのだろうか。だがあそこは、ララが立ち入り禁止にしていたはずだ。もともと、ほとんどひとの来ないギャラリーではあったが、あの雷が落ちた日から、しばらく工事の人間が出入りして、とてもうるさかった。最近はまた、ひと気が途絶えたはずだったのに。

日課の祈祷をすませ、サルーディーバはいつもならすぐ帰るはずの足を、久方ぶりにギャラリーのほうへ延ばした。

たまには、マーサ・ジャ・ハーナの神話の絵を見るのも、気分転換になっていいだろう。あの百五十六代目のサルーディーバが描いた絵には、彼の魂が宿っている。サルーディーバは、最近特に、その古き先人の絵を尋ねて、おのれのあり方を問うことが多かった。

 

(……急に降り出して、)

雷鳴を連れた豪雨。ギャラリーの廊下は広いから、絵に雨がかかることはないが、廊下にまでびしゃびしゃと雨が打ち付けていた。

ここの管理人は何をしているのだろう。急の雨だったから仕方ないのかもしれないが、絵に雨が掛かったら、ララが激怒することは分かっているのに。ただでさえ、ララはこれらの絵を、風雨の当たるこの廊下へ展示していることが不満なのだ。

サルーディーバは自身が濡れるのも構わずに、手早く廊下の扉を閉めはじめた。

拝殿がわのほうから、閉めきっていく。

 

グレンは、誰かが奥の方からやってくるのを、ぼやけた視界で捕えた。だれかが、廊下の引き戸を順番に閉めている。

 

サルーディーバも、庭にひとがいるのに気付いた。その男性は、この豪雨なのに、庭に佇んで絵を見ているのだ。雨に濡れるのを厭いもせずに。

「貴方! そんなところにいては風邪を――、」

はっと、口を手で覆った。相手も気づいた。相手も、食い入るように――まるで、記憶の姿を、頭の中でめのまえの姿に合致させようとするかのように、鋭い目を、サルーディーバから離さない。

「あんた、――」

サルーディーバは、身をひるがえした。動きにくい衣装のすそを持ち上げて、逃げだした。

「おい、待て! 待ってくれ!」

グレンは、思わず土足のまま、廊下に駆け上がった。