七十二話 君へ
「おい、待て! 頼むから待ってくれって、……!」 グレンは、全身びしょ濡れのまま、サルーディーバを追いかける。濡れそぼった長い前髪が邪魔だ。短いままにしておけばよかったと、グレンは少し後悔した。髪をかき上げてうしろに撫でつけ、勢いよく走り出そうとしてひっくり返りかけた。相手も動きにくそうな服装だが、こちらも濡れているため、革靴が床を滑る。いつもならたちどころに追いつけているはずだが、なかなか追いつけない。 「待て――、あんた! サルーディーバだろ!?」 広い空間に出た。ここがオクデンという名の神殿か。サルーディーバは奥殿正面の入口へ向かって走っていたが、グレンのその言葉に驚いて振り返った。 「な、頼む! 待ってくれ、なにもしねえ! 俺はただ――、」 「貴様! 何をしている!!」 サルーディーバと同じように、全身を布と装身具で巻いた――こちらは体格のいい男と、スーツ姿の男数名が、グレンの前に立ちはだかった。 「ここは立ち入り禁止だ!!」 グレンはげっと叫びそうになった。変わった衣装の男が、警棒を振り上げてグレンに飛び掛かってきたからだ。思わずグレンは男の頑丈な腕を空中で受け止め、背に捩じりあげていた。 「――!!」 向こうで、サルーディーバが息をのんでいるのが分かる。 「ぐあっ……!」
腕を捩じりあげられた男から、苦悶の声が上がる。 「おい、不法侵入者だ!」 「捕えろ!!」 スーツ姿の男も衣装の男も、警棒を取り出した。 「バカ野郎っ!!」 グレンの一喝に、男たちは全員漏れなく怯んだ。 「軍人にいきなり襲いかかるやつがあるかっ! 俺たちはこういう訓練受けてンだ! 攻撃する気はなくてもな、勝手に体が動くんだよ! こっちが銃持ってなかっただけマシだと思え!!」 グレンは、捕まえていた男を突き放した。仲間が解放され、男たちはふたたび警棒を振りかぶった。完全に腰が引けていたが。 「おやめなさいっ!!」 今度の一喝は、グレンではなく後方からした。 「し、しかし、サルーディーバ様、こいつは、あなたを追いかけて……、」 「落ち着きなさい。わたくしは無事です」 「俺は何もしねえって言ってんだろ!」 グレンは、どっかりとその場に胡坐をかいて座り込んだ。 この宇宙船に乗って、こんなに手荒い歓迎を受けたのははじめてだ。止まれとも言わず、いきなり警棒を持って襲い掛かってくるなんて。この宇宙船内は、こちらが驚くほど丁寧で、船客に対する態度も慎重だ。 こいつらは、役員じゃないのか? 「グレン・J・ドーソン。……このK05区内の店舗で、さきほど問題を起こしたばかりです。それに立ち入り禁止区域に無断侵入した罪、VIP船客に働いた無礼……、」 スーツ姿の男二人が、せかせかした声で、電子手帳を読み上げている。あの手帳は、チャンも所持していたが、船客のデータがすぐわかるのか。グレンがちっと舌打ちした。 「担当役員はチャン・G・レンフォイ。あなたは中央役所に来てもらいます。違反切符を切るのはこれで二度目。申し訳ありませんが、ただちに宇宙船を降りていただきます。……一応、決まりですので」 グレンに怯えた顔で、スーツ姿の片方が、媚びたようなおかしな笑みを浮かべた。 違反切符が二度で、降ろされるだと? グレンがバイトしていたルシアンというクラブも、場所が場所なだけに、違反切符を切られる船客が多かった。だが、仏の顔も三度までというように、三度目まではルシアンの支配人は目を瞑っていた。めのまえのメガネザル役員は、グレンを降ろすと言いきっている。船客を宇宙船から降ろすかどうかは、その場の役員の判断次第だというのだろうか。グレンは二度目の舌打ちをした。 ――どうやら、タチの悪い役員につかまったらしい。 「ああ! いつでも降ろしてくれて結構だ」 「グレンさん!」 サルーディーバが思わず叫ぶ。グレンはちらりとサルーディーバを見たが、サルーディーバはグレンに見られると目を反らした。グレンは片眉を上げる。 俺の名を、覚えているのか。 ――まるで、好きな男と目があって、恥ずかしがってる女みてえだな。 グレンは冗談じみたことをと自分でも思ったのだが、まさか、それが真実だとは思いもしなかった。 L03の衣装の男たちが、乱暴にグレンを立たせようとする。 「立て!」 グレンは、大柄な男たちの腕を振り払った。ひと睨みで、男たちはまた挙動不審になった。 「おまえらに命令される筋合いはねえ」 「貴様に選択肢はない! 宇宙船を降ろされるのだ!!」 「――おまえら、バカか? L03じゃ知らねえが、L55の法律じゃ、いきなり警棒でひとに殴りかかったら、逮捕されるんだぞ?」 「貴様は、宇宙船からっ……!」 バカの一つ覚えのように、宇宙船から降ろされるということを強調したがる彼らに、グレンはさすがに呆れてため息をついた。 「別に降ろされたっていいよ。だがな、訴訟は起こすぞ。俺はたしかにVIP船客に無礼を働いて、立ち入り禁止区に入ったかもしれねえが、この宇宙船の役員は船客にいきなり警棒を振り上げるのか? 俺が軍人でなかったら、頭を割られてた」 最初にグレンに襲い掛かった男が、甲高い声で怒鳴った。 「きっ、貴様は、貴様は! サルーディーバ様にご無礼をっ……!」 「俺はサルーディーバじゃなく、この宇宙船とてめえに対して訴訟を起こすんだ。この宇宙船内はL55の法律で動いてンだぞ。俺は知人を追いかけただけだ。危害を加える気はなかった。そうしたら、見知らぬ男どもが、俺に止まれとも言わずに警棒を振り上げた、」 「証拠など、どこにもありませんが」 スーツ姿の男が、嫌味な笑顔を向けてくる。グレンのこめかみがピシリと鳴った。 「……じゃあ、どうせ降ろされンなら、てめえら全員、病院送りにしてからでもいいってことか」 アズラエルに負けず劣らない凶悪顔で、右手をゴキリと鳴らしたグレンに、男たちは怯えて後ずさった。 「わ、わ、わ、私に危害を加えたら、警察星いきになりますよっ!」 役員であろうスーツ姿の男が、悲鳴のような声を上げたが、グレンは嘲笑った。 「いいんじゃねえか? 警察星は軍事惑星の隣だし、家には近い」 「おやめなさい! 証拠ならあります!」 サルーディーバの声が、奥殿に響いた。「サ、サルーディーバさま……、」男たちの声が揺れた。 「私が証拠でしょう。いま、ここで見ていたのですから。……グレンさんの言うとおりです。いくらなんでも、先ほどの行いは乱暴すぎます。相手の方が軍人でなければ、重傷を負わせていたところですよ!」 「し、しかしサルーディーバ様、こいつはあなたに、」 「まだ、何もしていません。……驚いて、ここに逃げ込んでしまった私が悪かったのです」 「でも、サルーディーバ様……!!」 なおも言い募る衣装の男たちを、サルーディーバは静かにたしなめた。 「みな、ここはL03ではないのですよ。いいえ。L03でも、もうこんなことはしてはいけません。……いい加減に分かってください。L03ではわたしは“サルーディーバ”かもしれません。ですが、かの地を離れたなら、私はほかの人間と何ら変わりのない、一人の人間なのです」 男たちは、納得いかない顔でグレンを睨み、そしてサルーディーバを見つめ、悄然と肩を落とした。 「神の御前で、ひとに乱暴を働く気ですか。……もうよろしいですから。サルディオネを呼んできてください」 まるで、親に叱られたこどものように、衣装の男たちはぞろぞろと奥殿を去っていく。サルーディーバがひとりひとりの背を優しく撫でると、みなほっとしたように顔を和らげるのだった。スーツ姿の役員も、メガネザル一人を残して奥殿を出ていった。最後まで、グレンを指さして、なにか小声で話しながら。 |