「――だいじょうぶだよ。グレンはもう、ドーソン一族には関わらない」

 ルナは悲しい顔で、アズラエルを見上げた。

 「グレンはね、もうL18には帰れないよ……」

 「……なに?」

 ルナは、口が勝手に動くのを止められなかった。頭の隅で、いい匂いがするなあと、ぼんやり考えていた。ルナの意志とは無関係に、口が勝手に喋りだす。

 「バクスターパパにももう会えない。グレンは、地球に行くのよ。――“わたしをいくら欲しがっても、わたしは彼のものにはなれないの”

 

 アズラエルは絶句した。ルナに透けて、もう一人のルナが見える。黒髪の、妖艶で、しかし愛らしさも失っていない、美しい娘。

 目を疑っている間に、「ルナ」はアズラエルの膝から離れて、出口の方へふわりと動いた。

 

 “だって、貴方もグレンも、これが最後のリハビリで、一番最初の罪を償うの。貴方はわたしを愛して愛される。――グレンは、おとうさんに残りの人生を捧げるのよ。つぐないのために”

 

 アズラエルは、ふらふらとルナのほうへ寄ろうとしたが、身体が固まって動かない。

 

 “わたしを愛してる?”

 

 ルナは微笑んだ。その途端、アズラエルは身体が燃えるような気がした。恋焦がれて、やまない女神がめのまえにいる。アズラエルはやっとの思いで頷いた。

 

 “そう? なら、弟と仲直りするのよ。苛めちゃダメよ。わたしはあなたのものなんだから――いい子ね……”

 

 絹に口づけたような感触。女神の唇が、アズラエルの唇を掠めていった。アズラエルは無意識に掻き抱こうとしたが、本物のルナごと、妖艶な女神は消え失せた。濃厚な桃の移り香を残して。

 「――っ!!」

 無呼吸状態から、急に酸素を送り込まれたようだ。アズラエルはぜえぜえと呼吸をし、尻もちをつくようにして座り込んだ。全身に嫌な汗をかいていた。

 (――なんだ、今のは)

 もしかして、アレが、一億倍の色気のルナか?

 「小悪魔にも、ほどがあるだろ……」

 捨て台詞を吐くのが、精いっぱいだった。

 

 

 (――あれ?)

 ルナは、ぽてっとどこかの部屋の前に突っ立っていた。めのまえには障子がある。二、三歩、後ろに下がって部屋の名前を見ると、……花桃の部屋。

 (はれ?)

 いつのまにこんなところに。さっきまで、アズラエルと話していたのに。

 廊下を振り返るが、ルナはどうやってここまで来たのか、覚えていない。

 

 「だれだ!?」

 警戒した声とともに急に障子が開けられ、ルナは全身でビクついた。ぴーん! と直立不動うさぎになる。

 「――なんだ、ルナか」

 怖い顔で障子をあけたグレンは、ルナだとわかって肩をすくめた。グレンのその手には大きな短銃があり、ルナは二度びっくりしてぴきーん、と固まった。グレンは慌てて銃を背後に隠し、言った。

 「なんだよ。びっくりしただろ。入るならさっさと入ってこいよ」

 従業員ならすぐノックでもして入ってくるのに、部屋に入っても来ず、ずっと障子の前に立ちすくんでいる人の気配が不気味で、グレンは銃を持ち出したのだった。

 グレンは、さっきの硬質な表情はもうどこにもなく、ルナを拒絶している節もなかった。

 

 「おまえひとりか? あのクソヒゲ野郎はどうした?」

 「あ、えっと……」

 自分がなぜここにいるのか分かっていないルナは、説明できずにもごもごと口を尖らせた。

 「……まあいいさ。入れ。俺はこれから電話しなきゃならねえんだ」

 「でんわ?」

 「ああ」

 グレンに促されてルナは「花桃の部屋」に入る。この部屋は櫟の部屋ほどではないが、結構な広さがあり、内庭が見れるようになっていた。以前セルゲイが泊まった時に咲いていた桜は葉桜になりかけ、花桃が咲き始めている。

 (さっきの桃の香りはこれだったのかな?)

 だが、櫟の部屋からはこの内庭は見れない。

 グレンはまだ浴衣姿のままだった。室内備え付けのパソコンを立ち上げて、通信が繋がるのを待っているところだった。

 

 「……グレン、ひどいこと言ってごめんね」

 グレンが苦笑した。「なんでお前が謝るんだ」

 「あたしがアズの代わりに謝るの。……グレンがその、泣いてるかと思って」

 「……」

 グレンはその切れ長の目を面白いくらい見開き、沈黙し、それから爆笑した。

 「ぶははははは!! 俺が? 泣く?」

 よほどツボに入ったのか、涙目になって笑い転げている。

 

 (グレンって、絶対笑いすぎだよね)

 二枚目イケメンが台無しだと、ルナはいつでも思うのだ。でも、グレンがひどく傷ついて、落ち込んでいなくて良かった。

 「お、おまえ、俺が、俺が、アズラエルとケンカして、泣くっていうのか……!!」

 

 「ンもう! 心配して損した!」

 グレンがあまりに笑い転げるので、ルナはふて腐れ、ぷうっと頬を膨らます。たしかに、なんでこの部屋の前に来ていたのかは分からないが、グレンが心配だったのは本当なのだ。

 「い、いや、悪ィ……ぶふっ! おまえ、ほんとに可愛いなあ……、」

 ルナが拗ねたので、グレンはようやく笑いを堪える意志を見せた。ふくれっ面のルナをいきなり抱き寄せ、膝の上へ抱える。

 「うひゃっ!」

 「俺が泣いたら、おまえ、慰めてくれるのか? ン?」

 「……ふぐっ!」

 ルナを見る目が愛しげに細められたかと思うと――ルナの答えを待たずに、グレンの大きな口が、ぱくりとルナの口を塞いだ。

 

 『コラ。何やってるのグレン』

 

 聞き覚えのある声が横からする。障子の方ではなくて、パソコンのある方からだ。グレンはもぐもぐと口を動かすのをやめ、ルナの唇を解放した。ルナがぷはっと息をする。

 「セ、セルゲイ?」

 通信が繋がったのか。画面に映っているのは、セルゲイの不機嫌そうな顔だ。セルゲイとの電話だったのか。

 『グレン。ルナちゃんを離しなさい』

 「イヤだね。離せるもんなら離してみろ」

 『いいよ。今そこに雷落としてあげる。グレンだけに当たるようにね』

 グレンは丁重にルナを座布団の上に置いた。セルゲイはどうやら最近開き直ったようだ。雷ネタで弄られても動じないどころか、積極的に使おうとしている。