「あなた、グレンさんの降船処分は取り消してあげてくださいね」

サルーディーバは、残ったスーツ姿の役員に対して言った。

「いえこれは――いくらサルーディーバ様でも――これは宇宙船内の問題ですから」

男は、気味の悪い笑いを貼りつかせて、首を振った。

「彼はわたくしに無礼を働いたわけではありません。それでもですか」

「でも、ここに不法侵入しています」

「では、私が許可しましょう」

役員は、面食らったように沈黙し、

「――なにか、あの、彼を降ろしてはいけない理由が?」

 

サルーディーバは嘆息した。どうしても、グレンを降ろしたいのか。役員の目には、すでにグレンは「危険人物」としか映っていない。

「あの方は、わたくしの知人です。――わたくしが、その、……勘違いをして逃げ出してしまっただけなのです」

それを聞いた役員は、いったん呆気にとられたような顔をしたが、すぐに両手を打った。承知しました、というように。ますます、笑顔が嫌らしいものになった。

「はあ、そうですか――。そうですね。――そういうことで、」

こっそりと彼は、サルーディーバに耳打ちするように呟いた。

「お気を付けくださいね。……愛人のトラブルは、意外と難しいんですよ。まあ、いくら高官の方でもね、こう人目に触れますとね、ごまかしもなかなか。……まあ、ここは私もひとつ、目を瞑りましょう。そういうことなら、」

サルーディーバの顔が、瞬時のうちに怒りに染まった。

 

「ララに頼んで、無礼罪で役員資格はく奪してもらおっと」

 

サルディオネの声に、役員は神経質な背中をビクリ! と揺らして振り返った。

「サルーディーバが生涯独身守るってことも知らずに、よくK05区の役員してられるね」

「こ、これは、サルディオーネさま……、」

役員は、L03の発音風に、語尾にくせをつけて伸ばした。

「もう行きなよ。……言っとくけど、グレンさんを降ろしたら、あんたにも処分がかかるからそのつもりで」

サルディオネの毅然とした声に、役員は逃げるようにこの場から去った。

 

「“下品なサル”め。ああいうのも、宇宙船役員にいるから困るよ」

「サルディオネさんか?」

「久しぶりだねグレンさん。元気だった?」

「元気だよ。このとおりな。助かったよ、ありがとう」

「だれかに殴られたの? 顔は腫れてるし、この聖なる神殿にビッショビショのまんま、土足で飛び込んで来たら、だれだって不審者扱いするよ」

サルディオネの呆れを含んだ苦笑に、グレンは自分の全身を見て肩をすくめる。顔は仕方がない。アズラエルも同じだけ腫れている。このオクデンは土足厳禁なのか。今更だが、靴は脱いでみた。水が靴の中からだばだばと滴る。

「たしかに、不審者だ」

グレンの言葉に、サルディオネは声を上げて笑った。

 

開け放たれた奥殿から見える空は、いつのまにか晴れていた。

胡坐をかいたグレンの傍に、サルーディーバがやってきて、目線を合わせるようにしゃがみこんだ。

「思わず逃げてしまって……。ほんとうに申し訳ありません」

グレンの前にいたのは、さっき困ったように目を反らした女性ではなかった。オッドアイの神秘的な輝きを持つ目をした神官、サルーディーバだった。

 

「やっぱりあんた、このあいだの人だな」

グレンは言った。

「去年の大晦日に、あの商店街で俺が会ったひとだろ?」

サルーディーバは、わずかに微笑んで肯定した。そのほほえみがとても寂しげに見えたのは、グレンの気のせいだろうか。

「会いたかった」

グレンの素直な笑みに、サルーディーバはわずかにたじろいだ。グレンは間近でサルーディーバの顔を見ていたから、気づいたのだ。もう少し離れていたら、それは分からなかったかもしれない。

 

(L系惑星群じゃ、生き神さまなんて呼ばれてる人間だが……、)

グレンは、よく表情が変わるサルーディーバに、好感以外の感情は持たなかった。

(照れてみたり、怒ってみたり。感情がすぐ表に出る。案外、分かりやすい)

 

グレンにじっと見つめられ、揺れ動く感情をなんとか理性で押さえこみながら、サルーディーバは目を伏せた。

「……先ほどの者たちの無礼も、あのとき貴方にウソをついたことも、お詫びせねばなりませんね」

グレンは大笑いした。

「そんなこと、あんたが詫びる必要はねえだろ。……あんたが静かに暮らしていたかったところに、突然訪問したのは俺だし、いちいち無礼を働いてるのは確かに俺だ。だが、悪気はなかった。俺はただ、あんたに直接礼を言いたかっただけだ」

グレンは、座ったまま、頭だけを下げた。

「あのときは、助けてくれて、ありがとう」

 サルーディーバは、小さな声で、「……いいえ」と呟いた。万感の思いを込めて。

 「助かって、良かった……」

 サルディオネは、だまってふたりの様子を見つめている。

 

 「さきほど、あなたを殴ろうとした者たちは、宇宙船役員ではありません。それに、役員の方は、私の担当役員ではありません。このK05区管轄の役員というのでしょうか、そういう方です」

 サルーディーバの話によると、船客の担当役員とはべつに、各区域ごとの責任者である役員がいるらしい。K05区はあのメガネザルが、いわゆる区長ということか。今日はたまたま、真砂名神社に来ていたらしい。ちなみにK27区の区長はアントニオで、K37区はルシアンの支配人だと、サルーディーバは教えてくれた。

 

 「へえ、ルシアンの支配人が責任者か。――しかし、あんな性格悪そうなヤツが、ここの区長なのか?」

 サルーディーバは微笑んで言った。

 「……真砂名の神の、お計らいがあるのでしょう」

 サルディオネもグレンも思った。――性格悪いっていうところは否定しなかったぞ?

 

 「はあ、じゃあ、あの乱暴な連中はあんたの取り巻きか?」

 サルーディーバは小さく頷いた。

 「取り巻き――そうですね。彼らも、L03から乗った、あなたと同じ船客です。彼らは、自分からわたくしの護衛を名乗り出てくださって、わたくしが毎日ここで祈願をしているあいだ、護衛をしてくださるのです」

 「なるほどな」

 「L03では、サルーディーバに無断で近づくだけで罰せられる。彼らは、自分たちが悪いことをしたとは、微塵も思っていないのです。……この宇宙船に乗ってから、わたくしもサルディオネも、再三注意してきたのですが、彼らは分からない。なかなか、分かってもらえない。私とて、L03を離れて、サルーディーバなど知らない人間のところへ行けば、ただのひとと変わりありません。……ほんとうに、驚かれたでしょう。申し訳ありませんでした」

 「……」

 「メルーヴァの革命が成功したので、L03はこれから近代化の道を歩むと言われています。一番に変えねばならないのは、そういった、歪んだ価値観からなのかもしれません」

 サルーディーバは、苦笑した。

 「わたくしも、矯正中なのですよ」

 「あんたが?」

 「……ええ」

 「あんたは、まともそうに見えるけどな」

 「意外とガッチガチなんだよ、姉さんは」

 ここが、とサルディオネは、自分の頭をツンツンしてみせる。

 「しっかしまあ――ずいぶんひどく汚してくれちゃって」

 グレンが走ってきたルートは、間違いなく泥と水で汚れていた。

 

 「グレンさん、あんた、功徳を積むと思って、掃除していきなよ!」

 「……や、クドクってやつは分からねえが、掃除はするさ。俺が悪い。そのまえにちょっと待って、」

 グレンは、来ていたポロシャツを、いきなり脱ぎ始めた。「きゃあ!」サルーディーバが悲鳴を上げて、グレンに背を向ける。