「――まあいい。これですっきりしたぜ。サルーディーバさんに礼を言えたからな」

 グレンは、部屋の隅に畳んであった自分の服を取り上げ、退出の気配を見せた。

 「もう帰るんか」

 「ああ。ヨウカンごちそうさん。この服は、クリーニングして明日帰る前に返すよ。じゃあな」

 手を上げ、廊下を大股で歩いていくグレンを、あわててサルディオネは追った。

 「あ、ちょっと待って、待ってよ……!」

 

 グレンの足は速い。あっという間に奥殿の正面から出たグレンは、まだぐちゃぐちゃに濡れている革靴の気持ち悪さに顔をしかめながら、どっちから戻ったらいいか考えあぐねていた。どうせなら、靴も乾かしておいてもらえばよかった。

ここは奥殿で、あの長い階段のすぐ上にあった拝殿ではない。どこから戻ったらいいのか――。

 

 「待てって言ってるだろそこの銀ダラ!!」

 「あァ!?」

 ケンカを売るやつはどいつだだと顔をしかめて振り返ると、チビの女。

 「なんだあんたか」

 サルディオネがぜえはあ言いながら、やっと追いついた。

 「あんた、どこから帰るつもり?」

 「さアな」

 さっきの、ギャラリーの廊下から帰るしか方法はないのだろうか。だとしたら、もう一度拝殿へ上がって、ギャラリーのほうへ行かないと。

 「あたしが道案内してあげるから。……こっちだよ」

 右側のほうへサルディオネが行くと、狭い石の階段が見える。

 グレンは黙って、サルディオネの後を追った。

 

 

 ――真砂名の神よ。

 

 サルーディーバは、声を殺して泣いていた。あの、百五十六代目のサルーディーバの絵の前で。

 胸がつぶれそうなほどに、辛かった。

 

 真砂名の神よ、なぜ。なぜなのです。

 

 どうして、あなたは私の前世だけは、見せてくださらない――。

 

 グレンは、いったいなんなのです。

 わたしにとって、彼はいったい、なんなのです。

 なぜこれほどまでに私は、あの方に恋焦がれなければならない。

 この痛みは。この胸の痛みを。わたくしは。

 

 グレンの鉄の心臓は揺らがない。

私に触れても、まるで本物の鉄のように、彼の感情は冷えたまま。

 彼の心から流れてくる温かな波動の、ささやかさを見たか。

 わたくしの頬に触れたときの、しずかな波動を。

 

――安心して。グレンは、君みたいに恋に恋するような感性は持ち合わせてない。二番目に愛した女だって抱けるし、妻にもできる。事実、愛してない女だって抱けるし、妻にしようとしていた――。

 

アントニオの言葉が、刃となってサルーディーバの胸を抉る。

サルーディーバは、はじめて自分の能力を恨んだ。人の心がわかるちからを。

グレンに抱かれた女性たちは、分からないことが幸せだ。

どんなに冷えた心で、あの男が女性を慈しむか。

下手をすれば、欲情すら持ち合わせない――彼にとって、どうでもいい女性を愛することは、義務でしかない。

彼にとっては、わたくしは、彼の周りにいたその他大勢の女たちと何ら変わりないのだ。

いいえ、きっと、もっとひどい。

彼の目に、魅力的な女性として映る女はまだいい。

わたしは、彼のまえでも、「サルーディーバ」でしかないのだから。

 

――それが現実だ――。

 

そうだ、それが現実だ。そのとおりだった。

グレンは、サルーディーバを愛することはないだろう。

ルナでなければ、あの冷えた心は暖められないのだ。

 

 ルナの頬に触れたときだけ、あの鉄の心臓に火がともる。熱く脈打ち、一気に融解する。甘く火傷する蜜になる。

 

 ルナに触れたときだけ。

 

 椿の宿で見たルナの夢を、サルーディーバは忘れることなどできない。

 

 (ああ――ルナ。愛してる。愛してる。俺の可愛いルナ――)

 何度聞いただろう。ルナを貪る彼は、あんなに冷えてなどいなかった。

 (愛してる、愛してる、愛してる……)

 俺のルナ。俺のものだ。

 繰り返すグレンの熱いためいきが、サルーディーバの胸を焦げ付かせた。

 

 そんなに欲しかったの。ルナが。

 

 何度生まれ変わっても、ルナが男であっても女であっても、彼は恋をする。

 何度も、何度も。

 

 どこかで、自惚れていた。

 ルナはアズラエルを愛している。だから、もしかしたら、ほんの少しは、自分のほうに気持ちを向けてくれるのではないかと。

 たとえ紫がかった赤だとはいえ、ルナとの糸ほど太くはなくとも、赤い糸で結ばれている私たち。

 あのルナに向けていた熱い思いのほんのわずかでも、自分の方へ向けてくれるのではないかと。

 だけれど、彼の心臓はピクリとも動かなかった。

 甘さなど微塵もなく――目的を果たした彼は――命の恩人に直接礼を言い終えた彼は――もう私のことは忘れるだろう。

 

 ――これは――わずかでも、自惚れた私への、罰なのだろうか。