七十三話 リハビリ夢の中 Z




 

 なんて、なんて素晴らしい絵なのでしょう。

 その絵を見たひとたちは、うっとりと絵画に見惚れ、魂を奪われたように立ち尽くしました。

 だれもがその絵を欲しがりました。家に置いておきたがりました。あるいは片時も手放さず、その絵を眺めていたいと思いました。

 

 L系惑星群に人類が移住して百年。

 政府は、地球行きのツアーを目的とした、豪華な宇宙船をつくることに決めました。その宇宙船は、まるで小さな惑星のようで、人が永住することも可能な宇宙船。

 その素晴らしい宇宙船には、ありとあらゆるもののなかで、最高のものが集められます。最高に住みやすい環境、地球にそっくりな気候、風土、建物、文化、芸術、エンターテイメント、美食――、彼らが計画したのは、楽園です。最高のスタッフがそろい、望めば叶わないことはありません。L系惑星群の、どの星の住民も入れる、夢のような宇宙船――。

ここには「最高」がそろうのです。もちろん美術館も、最高の作品を揃えなければなりません。

 

 美術館創設の全権を任されたのは、八つ頭の龍という、金色の竜さんです。彼は一流の審美眼の持ち主。そして彼を雇っているパトロンは、宇宙船の株主となったピンク色のうさぎさんです。ピンク色のウサギさんは、美しいマダム。パンダさんという、大富豪の奥さんです。

 ウサギさんは、ただの大富豪の妻ではありませんでした。彼女には才能がありました。おそるべき商才が。

彼女の経営の才能は、もっぱら美術品のほうへ発揮されました。そのなかでも大きく金が動くのは、宝石の輸入に関わる商売でした。宝石のほかに、彼女の事業は絵画、彫刻、美術品の数々のオークション。それらの才能ある作家たちを育てる学校の経営にまで及びます。彼女の有能な右腕が八つ頭の龍さん、左腕が銀色のトラさんと言ったところでしょうか。

 うさぎさんはとても有能な女社長でしたが、それでも彼女の企業は夫の傘下にありました。パンダさんとしては、彼女が自分のもとを離れて独立することだけは、絶対に許しませんでした。また、彼女もそれでいいと思っていました。夫は彼女の事業に口出しはしませんでしたし、無理に独立をせずとも、楽しく商売はやれる。

 パンダさんの一風変わった独占欲には、ウサギさんもすこし困りましたが、パンダさんにもキリンさんという愛人がいましたし、ピンクのうさぎさんにも愛人がいました。だけれども、その愛人はすこし危険な男です。マフィアのボスなのです。大きくてワイルドな、褐色のライオンさん。うさぎさんの経営の裏工作には欠かせない男です。夫や銀色のトラさんは、ライオンさんがウサギさんの愛人だということにいい顔をしませんでしたが、それでも彼は、ウサギさんの商売に必要です。ウサギさんは、ライオンさんを掌で転がしているつもりでいました。彼の恐ろしさも知らずに。

 

 さて。

 いよいよ、夢のような地球行き宇宙船が完成しました。

 あとは、中の街を作り上げねばなりません。美術館建設の総監督に任された八つ頭の龍さんは、美術館の建設にくわえ、真砂名神社の建設のアドバイザーにも指名されました。

八つ頭の龍さんは、女社長に、しばらくは地球行き宇宙船の事業に全力を傾けることを許され、そのための資金もいくらかかってもいいと言われたので、大感激でした。これほど嬉しいことはありません。

 八つ頭の龍さんは、自分が理想としていた美術館をつくることを目的としていました。

 そしてそれは、三年の歳月をかけてできあがりました。

 L系惑星群最高の建築家、彫刻家、デザイナーを集め、外観を設計し、美術館の中も、地球から運び込んだ、貴重な絵画や芸術品で埋め尽くしました。

 素晴らしい出来上がりです。

 この美術館の出来上がりには、うさぎ社長も感嘆しましたし、だれもが八つ頭の龍をほめたたえました。何日も、新聞やテレビはこの美術館の話題で持ちきり。定期的に行われる宇宙船内の公開日には、その美術館を見るためだけにL系惑星群から何億という人間が集まり、結局公開日を延長したうえ、抽選にしなければなりませんでした。

 それもこれも、うさぎ社長が、八つ頭の龍のわがままを聞いて、たくさんのお金を投資してくれたおかげです。

 

 うさぎ社長に絶賛され、公開日も終わり、自分の理想郷をひとり、歩いていた八つ頭の龍。

 ――なぜだか突然、おそろしい虚しさに襲われました。

 大事業を為した後だからだろうか。じぶんは、疲れているのだろうか。たしかに寝る間も惜しんでこの大事業に着手したけれども。

 ちっとも、この輝かしいまでの美術品たちが、美しく思えないのです。

 ちっとも、心を打たないのです。

 以前は見るだけで胸がドキドキしていた美術品たち。名作と呼ばれる美術品を見ても、心が動かされないのです。あれほどの情熱はどこへいってしまったのだろう。

 「あなた、疲れたのね。この三年間、一生懸命だったもの」うさぎ社長はだいじょうぶよ、とでも言うように、八つ頭の龍に言いました。

 八つ頭の龍は、長い長いおやすみを貰いました。本当は、銀色のトラさんに止められましたけれども。なぜなら、うさぎ社長が地球行き宇宙船の事業に投資しすぎて、会社は赤字続き。これを立て直すために、八つ頭の龍が必要だったのです。

 「心配ないわ。あたしが立て直すから」

 八つ頭の龍は、留まるべきだったのです。うさぎ社長は、会社の立て直しのためにますますマフィアの裏取引に呑まれていたのです。底なし沼にずぶずぶと。もう、後戻りできないところまで――。

 

 八つ頭の龍は、L78の田舎町で、のんびりと身を休めていました。ですが、なかなか失ってしまった感動が戻りません。田舎町にいるあいだも、近くの美術館を見に行ったり、自分が所持していた名作と呼ばれる絵画を眺めていました。でも、やはり、ちっとも素晴らしいと思えないのです。

 

 ある日、彼は野道を散歩していました。農道のど真ん中で、彼は嗅ぎ慣れたにおいに立ち止まります。テレビン油のにおい。――油絵の匂い。

 こんな農家ばかりの町に、油絵が?

 信じられないとは思いながら、彼は匂いをたどって、一つの農家にたどり着きました。

 開け放たれた大きな小屋。牛を飼っています。その奥に、キャンバスが無造作に置かれていました。外へ出ると、そこにもキャンバスが。

 八つ頭の龍は立ち尽くしました。その絵に見惚れて。

 見ているだけで、涙が出てくるほどの感動を覚えました。

 絵画は、ぜんぶマーサ・ジャ・ハーナの神話をモチーフに描かれています。

 ――一体、この絵は誰が――。

 一枚一枚の絵を、涙をこぼしながら見つめていた八つ頭の龍の前に、一人の女性が現れました。黒い猫さんです。

 「この絵は君が?」八つ頭の龍は尋ねました。黒い猫さんは、しばらくためらったのち、頷きました。

 「なんてことだ……! この絵は名作だ……!」

 感極まって八つ頭の龍は叫びました。この絵を、真砂名神社に奉納しよう。あの美術館へ? いやいや! そんなことはもったいない! これは神に捧げるべき名作だ!

彼は決めました。八つ頭の龍は黒い猫の両手を握って言いました。

 「君はぜひとも、一緒に来たまえ!」

 黒い猫は、はにかみながら頷きます。八つ頭の龍は、業者を呼んできて、絵画を宝石でも扱うように慎重に車に乗せ、黒い猫さんも一緒に連れて行くことにしました。

 「君は一人暮らしかね?」黒猫さんは頷きます。この家には、黒猫さん以外の気配はありませんでしたし、一人暮らしならば、構うことはありません。黒猫さんも、とくに荷物はいらないようでした。彼と黒い猫さんは、その日のうちに、L55へ立ちました。

 

 黒い猫は、実は一人暮らしではなかったのです。

 彼女には妹がいました。青い猫さんという妹が。そして、年老いて、歩くこともしゃべることもままならない父親の、眼鏡をかけたライオンさんが。

 あの絵画は、実は妹が描いたものでした。