昔から、妹は何をやっても器用で、とくに絵はいつもみんなに褒められていました。黒猫さんも絵を描きます。でも、やっぱり褒められるのは妹の方でした。だから妹の青い猫を恨めしく思っていましたし、黒い猫さんはこの家を、この田舎町を出ていきたいと常々思っていました。

まいにちボケてしまった父親の介護をし、近所の農家の手伝いでもらうわずかな給金。一日のほとんどを費やして働いて得た給金は、父親のために消えていきます。動けない父親の介護のせいで結婚すらできないのです。そんな生活に、黒猫さんは嫌気がさしていました。

ほんのちょっと、魔が差したのでした。                              

 新しい生活をはじめたい黒猫さんには、ちょっとの嘘でよかったのでした。あの絵を、自分が描いたものだと嘘をつく。ちょっとの嘘。

 

 そのちょっとの嘘で、黒猫さんの生活は激変しました。

 L55という、L系惑星群いちの大都市で、彼女は大富豪になったのです。

 L78育ちの田舎娘は、宇宙船内の真砂名神社に納められる聖なる絵画の作者となり、マスコミや、美術品業界からも一目置かれる存在になりました。もともと顔だちの悪くなかった彼女は、八つ頭の龍の妻の座さえ勝ち取りました。

 人生最高の栄誉と、賞賛。

 そしてなかなか叶わなかった結婚も、彼女の手に入りました。

 夫である八つ頭の龍は、偉大なる作品群を生み出す彼女の、美しい手に口づけて、何度も言いました。

 「次回作はいつできるのかね。我が妻よ」

 「そうね。きっといつか」

 

 このニュースがL78の田舎町に届いたのは、一ヶ月もたってからでした。青い猫は驚きました。父親を車いすに乗せて散歩をしている間に、自分の描いた絵と、姉が失踪していたのですから。

 姉が、わたしの描いた絵を自分の描いた絵だと嘘をつき、八つ頭の龍の妻になり、大富豪になっている。

でも青い猫は、それで姉が幸せならいいと思いました。彼女はずいぶん前から、ここを出ていきたいと何度も言っていましたし。姉がいなくなったのはさみしいけれど、自分には父親がいる。そして、絵を描く楽しみがある。

私は、名誉なんていらない。絵を楽しくかければそれでいいの。

そう微笑んで、青い猫は筆をとります。絵の続きを描くために――。

 

 姉の幸せを願っていた青い猫でしたが、黒猫は決して幸せではありませんでした。幸せだったのはつかの間です。彼女は、あの絵画の続きを描くことはできません。マーサ・ジャ・ハーナの神話の絵は、まだまだ描いていない話がたくさんあります。世の人々も、宇宙船のスタッフも、八つ頭の龍も、もちろん次回作を楽しみにしています。

 だいじょうぶ。わたしだって、それなりには描ける。素人ではないのだと、何度も言い聞かせて絵筆を取ろうとします。でも、手が震えてしまって描けないのでした。

 自分が偽物だとばれたら、この生活は一変します。

 黒猫は、かつての生活に戻りたくありませんでした。

 彼女は次第に、不安定になっていきます。八つ頭の龍は、田舎町から出て来たばかりの娘が、周囲から過剰に期待されては、描けるものも描けなくなるだろうと考え、「慌てなくていいのだよ」と妻を慈しみました。

 

 二年後。

 

 黒い猫は、たったひとりで自分の故郷L78にもどり、自分の生家の前に立っていました。

 黒い猫は追い詰められていました。自分では、もうあの絵を描くことはできない。妹が、続きを描いているはずだ。盗んででも、持って行かなけりゃ……。

 ですが、なんということでしょう。

 そこで行われていたのは葬式です。

 ――妹の。

 とっくに、父親は死んでいました。ひとりになってしまった青い猫は、寂しさのあまり自分も病気になって死んでしまったのです。彼女の葬式には、彼女の絵が飾られていました。マーサ・ジャ・ハーナの神話の絵。喉から手が出るほど欲しかった続きの絵。黒い猫さんはその絵も、葬式も見ていられなくて街を飛び出し、川に飛び込んで死んでしまいました。

 

 八つ頭の龍も、妻が失踪したことに心を割いている暇はありませんでした。

 大恩あるうさぎ社長が死んでしまったのです。大変なスキャンダルでした。部下の銀色のトラさんと心中か!? と新聞に書かれるところを、慌てて差し止めました。

 違います。実際は、うさぎ社長があのマフィアのライオンと手を切ろうと思ったけれど許されず、殺されてしまったのです。彼女を庇った銀色のトラさんともども。心中に見せかけた手口でした。

パンダさんは、彼女の天才的な経営手腕を信じすぎ、守ってやれなかったことを心底悔みました。どうして彼女は、自分に助けを求めなかったのだろう。パンダさんは嘆きます。

八つ頭の龍も悲しみましたが、彼らには会社が残されています。八つ頭の龍は必死で、傾きかけた会社を何とか再建しました。十年かかりました。

 

 八つ頭の龍が、妻を探しに、あのL78の田舎町を訪れたのは、十年も経ってからでした。

 ちいさな農家があった場所はいまや取り壊され、なにもなくなっています。近所の人から黒い猫さんのゆくえを聞きました。彼らは皆一様に、死んだと言いました。やはり亡くなっていたか、と八つ頭の龍は涙にくれ、お墓参りをすることにしました。

 それにしても、彼女に妹と父親がいたとは。一人暮らしだと言っていたのに。

 彼女たちのお墓はすぐわかりました。そこに、神話の絵があったからです。

 これは、マーサ・ジャ・ハーナの続きの絵。黒猫さんは続きを描いて亡くなったのか、とつぶやく八つ頭の龍さんに、案内してくれた老婆は首を振ります。

 「そりゃ、青い猫さんの描いた絵じゃ。黒猫さんも絵は描くけど、そんなに上手くなかったよ」

 八つ頭の龍さんは、そこでやっと、真実を知りました。

 「じゃあ――あの、地球行き宇宙船に乗せた絵は――」

 「地球行き宇宙船? なんじゃそれは」

 田舎町の住民は、あまり地球行き宇宙船のことは、興味がないようでした。老婆にこの絵を持って行っていいかと尋ねると、持ち主はもう死んでいるのでいいと彼女は言いました。八つ頭の龍が持たせた謝礼金に老婆は腰を抜かし、ずっと墓の前でへたりこんでいました。

 

 八つ頭の龍は、この最後の絵を宇宙船内の真砂名神社に持っていきました。

 そうして、すべての絵から黒い猫さんのサインを消し、でも、青い猫さんの名を入れることもしませんでした。そして、世間には、あの絵は黒い猫の描いた絵ではなかったことを公表し、作者は分からない、と八つ頭の龍は言いました。

 

 なんて、なんて素晴らしい絵なのでしょう。

 その絵を見たひとたちは、うっとりと絵画に見惚れ、魂を奪われたように立ち尽くしました。

 だれもがその絵を欲しがりました。家に置いておきたがりました。あるいは片時も手放さず、その絵を眺めていたいと思いました。

 

 地球行き宇宙船が地球に向かって出航しました。

ひとびとは真砂名神社の奥殿の絵を必ず一度は見ました。マーサ・ジャ・ハーナの神話の絵だけれど、そこには温かな安らぎがあります。どんなにこわい話でも、この絵になると、ユーモラスに見えるか、同情を引く絵になります。

毎日、見に来る人もいました。元気づけられる人もいれば、慰められる人もいます。みんな、とにかくこの絵を見ると、些細なことが幸せに思えるのです。生きていることを、幸せに感じることができるのです。

 

 でも、この素敵な絵を描いた作者はだれなのか、永遠に謎のままです。