七十四話 うさこたん、むしゃむしゃされる




 

 アズラエルがさっきから何もしゃべらないのは、怒っているからではない。その口から言葉が紡ぎだされることはないけれど、ちゃんと仕事はしていた。ルナの口を愛撫する、という役割。実際のところ、アズラエルが何もしゃべらないことに、ルナはほっとしていた。喋りはじめたら最後、この下ネタ大王の口からはあられもない言葉が次々と迸り、耳から犯される。

 「……は、……ぁズ、」

 とにかくキスがやまない。

 「……ン。……ルゥ……」

 あたしはアズのおもちゃかなにかか。いつもそう思う。

ベッドに腰掛けてルナを抱き、キスを始めたら、まずこの猛獣は口から食いつくそうとでもいうように、合間に舌舐めずりと息継ぎを入れては、ルナの口の中を舐めまわす。最初はベッドに腰掛けて抱き、次は寝転がってルナを上にしたまま押さえつけ、さらにはシーツに沈め。

 

 「は、はあっ……っ、アズしつこい!」

 アズラエルのキスが、ルナを楽しませるためでなく、ただ貪っているのだという、その違いはやんわりとだが分かるようになってきた。マーキングのように唾液の味を移す。それだけの意図のキスは、ルナにとっては苦しいだけ。

 「ひでェ女だ」

 アズラエルは苦笑いして、唇を離した。

 

 K08のリゾート地にある、コテージ型のホテルもそう悪くない。湖のほとりに建てられたこのログハウスは、ルナも気に入った。だが今回は、ルナに観光と、この風景に感激する余裕は与えられなかった。もうすぐ六時。すいたおなかを満たす時間も。

 今夜の前座だと、さっさとベッドに連れ込まれたルナだったが、珍しく抵抗しなかった。

 アズラエルに相当我慢を強いていた自覚は、あるらしい。

 

 「ルゥ、上に乗っかれ」

 息も髪も乱し、普段の子供っぽさもすっかり抜けて、艶のある顔をしたルナが、アズラエルの下から這い出して、その分厚い胸の上に乗る。

 「あーん、」

 アズラエルの大きな掌が頬を撫で、親指で促すようにルナの唇をなぞる。親指のせいというよりも、あーん、という合図のせいで素直に口を開けたルナは、ふたたびアズラエルの口を呑みこまされた。

 「――ンっ……、」

 さっきとは違う、ねっとりとした舌使い。いつも忙しないアズラエルのキスとは思えないほどじれったく、舌がルナの口腔をはい回る。今度のは確実にルナの性感帯を攻めるやり方だ。ルナは必死にアズラエルのTシャツを掴みながら、こうなった原因を考えていた。

 自分が悪いと、考えてしまえばこの猛獣の思うつぼとなる。

 

 

 数時間前にもなる。ルナはやはりふて腐れていた。ふて腐れて車の助手席に乗っていた。

ミシェルを放っておけないと、アズラエルと押し問答をしたすえに、無理やり荷物と一緒に車に詰め込まれたのは記憶に新しい。

いくらなんでも、あんなにさっさと出てくる必要はなかったはずだ。グレンが来る前にここを発つといったアズラエルは、そういえばもうその頃からキレ按配だったのだと、ルナはぼんやり思った。いまごろ。

車に乗ったルナは頬をパンパンに膨らまし、アズラエルを無視する。だが今度こそ、根負けしたのはルナだった。ルナの無視は意味を為さない。アズラエルが何もしゃべらないからだ。二人で喋らなければ、それはただの会話をしていない恋人同士である。

 ルナがしかめっ面で運転席のアズラエルの横顔をチラ見し、そうしてルナは瞬く間にふて腐れをやめることに決定した。

 アズラエルの表情は冷たかった。それは、付き合い始めのころ、イマリのせいで恐ろしくはた迷惑な誤解をされたときと同じ顔だ。

 いわゆるキレ顔というやつだ。

 キレ顔、アイシャルリターン。

 この顔を見たのは久しぶりだ。それこそ、グレンと観覧車から降りてきたとき以来である。あのときも、寿命が縮む思いをした。しかしあのときはアズラエルの怒りを相殺できる「バブロスカ革命」という爆弾があった。今はなにもない。

 

 「ルゥ」

 固い、機械じみた声音でアズラエルは言った。

 「俺はてめえのなんだ。言ってみろ」

 

 まったく、ルナのほうを見ずに、口調とは裏腹に運転は穏やかだ。どこかの誰か――カレンが言ってなかったか。アズラエルはキレると、通常より頭が冴えて冷静になると。

 「こ、こ、こ、恋人です……」

 ルナがどもりながらやっと答えを返すと、「だよなァ」といかにもおかしげな笑いを零す。だがその顔は大魔王だ。クックック、と笑う顔は、どう考えても恋愛物語の王子様ではない。

 「てめえの男はグレンじゃねえな?」

 「――あい」

 「マヌケな返事はやめろ。気分が悪くなる」

 ルナは目を見開く。ここまでバッサリ切り捨てられたのははじめてだ。アズラエルは笑ってさえいない。

 アズラエルはルナに暴力は絶対振るわないし、ルナの暴言にも顔をしかめはするが彼自身はそれに匹敵するような暴言をぶちかましては来ない。たまに暴力かと思うような決定的な言葉攻めがあったとしてもだ。ルナの気まぐれもわがままも、受け止める、引き受ける。あるいは流す。――そんな彼の唯一の地雷、浮気。

 浮気と呼ぶにはあいまいなものかもしれない。だが、アズラエルが徹底的にキレた過去の事例を鑑みれば、グレンや、ほかの男との仲を疑われたときばかりだ。

 ルナは頭を抱えたくなった。どうして自分はこんなにも学習能力がないのか。三度目でようやく気付くのか。

 

 「アズ――、べつに、あたしはグレンが好きとかじゃ、」

 「うるせえな」

 またバッサリ。だが、キレて怒鳴ってこないのが恐ろしい。

 「喋るな」

 「で、でも、アズ、」

 アズラエルは途端に道のど真ん中で車を停めた。見通しの良い直線道路。ほかに車は通っていない。急ブレーキにルナはシートベルトがなかったら、したたかにフロントガラスに顔をぶつけていただろう。

 「ア――!」

 反射的に怒りそうになったが、ガン! という音の後にミシリという軋み音。何の音か考えたくもない。アズラエルの左腕が、ルナの助手席のドアに押し付けられていた。ルナの鼻先には、アズラエルの無表情の顔。

 「喋るなっていってンのに、耳がねえのかおまえは」

 脅す声に、草食動物は、本能的に震えあがるしかすべはない。ルナは、じんわりと涙が滲んでくるのがはっきりわかった。自分が悪い。アズラエルを怒らせた。でもアズラエルが怒っているのは、本当はなににだろう。自分がグレンと仲良くしすぎたからか。ほんとうはずっと怒っていたけれど、我慢が切れたということなのだろうか。

 

 アズラエルは、ルナが泣いたらいつもは「泣くな」とか困ったように頬を撫でて慰めてくるのに、今日に限っては別人だ。フンと鼻を鳴らし、運転を開始する。何事もなかったように。「静かにしてろ、チビウサギ」と言い放って。