――たがいに気分は最悪だ。

アズラエルはそれからしばらく、まったく口を利かなかった。

 喋るなと言われたルナが、恐る恐るアズラエルに口を利いたのは、それから一時間もしてからだろうか。

 

 「……アズ、なんで怒ってるの」

 アズラエルのこめかみがピクリと反応した気がして、ルナは慌ててつなげた。

 「あたしがさっきワガママ言ったから? ミシェルのこと心配だって言ったから? こないだグレンを部屋から追い出さなかったから? グレンと仲良くしすぎた?」

 「……しゃべるなって言ってンだろうが」

 地の底からマグマでも湧き起るような不機嫌に、ルナは口を噤み、とうとう本格的に泣き出した。

 「うるせえ」

 でも帰ってくるのは、冷たいままのアズラエルの声。

 「泣くなクソガキ。うるせえんだよ」

 その言葉に怒りが湧いたのは、ルナのほう。

 「うるさいなら車停めてよっ! あたし歩いて帰る!!」

 

 また、急ブレーキ。アズラエルは前方を向いたまま、ルナのほうを見ない。激情を、相当の辛抱で堪えている。だがそれは、ルナには分からない。アタマに血が上ったルナには。

 「帰りたきゃ、帰れ」

 そう言い放ったアズラエルに、ルナは助手席のドアを開けた。ここがどこかとか、車一台もいない、周りは草原ばかりの一本道だとか、そんなものは一切関係ない。ルナも腹が立っていた。シートベルトを外し、ドアを開け、外に出ようとしたルナの襟首は、引っ掴まれて、ものすごい力で車内に戻されていた。

 「この小悪魔っ!!」

 アズラエルから何度聞かされたか知らない、ルナのふたつ名(不名誉)が叫ばれたと同時に。背骨が砕けるほどの力で抱きすくめられて、口を塞がれた。

 ルナがもがく隙間も、固い筋肉で狭められて奪われていた。「……ふぐ、」

 苦しい。

 苦しいとしか言いようがない。

 肌が赤くなるほどがんばって隙間から這い出した両手を、なんとかアズラエルの背後に回してTシャツの襟をつかむ。引っ張る。何度も引っ張る。それしか抵抗もできなければ苦しいのだと伝えるすべもない。

 いつもの、優しいキスではないことは明白だ。

 苦しい、苦しい、苦しい。

 酸欠に頭が霞みがかり、アズラエルのTシャツを引っ張ったまま力が抜け、意識を失いそうになる直前に離される。

 

 「――っ!! ……っは、」

 アズラエルはルナの唇から糸を引くそれを舌先で舐めあげて、キスする前となんら変わらない氷点下の声で呟いた。

 「……死ねよ」

 ルナは、その声にぞっとした。

 「おまえ、俺のものにならねえなら、死んじまえ」

 

 ……おかしな話だ。おかしな話というのも今更かもしれない。ルナはその声にも、言葉にも聞き覚えがあった。そうちゃんと、アズラエルの口から。

 いつだっただろう。あれはいつだったか。

 キャメルのスーツを着たアズラエル。……あり得ない。でも彼はそれを着ていた。“この”アズラエルはダークカラーのスーツばかりなのに。ああ、そしてそう、彼は葉巻を好んで吸っていた。いつも冷酷な目をして、まるでゴミ箱に紙を丸めて投げるように人を殺す。

 そんな彼が、ルナを目にする時だけは蕩けるような顔で言う。

 『愛してるんだ。おまえのためならなんでもするよ』

 そう言って、ルナの足に口づける。ヒールを脱がせて、コートを脱がせてベッドへ運ぶ。

 コトがすむと、名残惜しく髪にキスして、つけたばかりの下着をまた剥がそうとする、

 『なあ、たまには朝までいろよ』

 

 “わたし”が愛人にしていたのは、マフィアの彼だけではなかった。ごくたまに、“彼”が切に望んで、もう仕様のない顔をして、わたしに跪いてねだればその身体を与えてやった。わたしの片腕に。もうひとりの片腕は、芸術が恋人だったから、わたしの身体は求めはしなかった。今思えば彼が一番まともだったのね。人妻になって長く、もう夫も抱かないような、手入れもしていないくたびれた身体をあそこまで欲しがる彼らは、訳が分からない。あの忠実で時たま奴隷根性になりさがる片腕は、わたしの夫はわたしが大切過ぎて私を抱かないのだと言っていた。そうね、あの人の愛人は、わたしの若いころにそっくりな女ばかり。ちゃんちゃらおかしい。みんな狂ってるわ。マフィアの男も、わたしの可愛らしい奴隷の片腕も、わたしの夫も。

 わたしは終わらせたかった。ぜんぶ終わらせたかった。わたしは自立したかったの。わたしを見ずに、若い女ばかりにうつつを抜かす夫から。経営の天才だか何だか知らないけど、わたしが会社を立ち上げて頑張ったのは、単にあの夫から自立したかっただけ。だから頑張った。いつひとりになっても平気なように。

美術品、美術品と、夢中になれるものがあって、キラキラと目を輝かせるあの子が可愛かったから、応援してあげた。一生に一度くらい、無償でだれかに何かをしてあげたかったの。夫に抱いてもらえないわたしには、子供もいなかったから。

 歴史に残るような、宇宙船の美術館を創設させてあげた。彼はしあわせだったんだから、良かったじゃない。

 もういいじゃない。会社は畳んで、わたしは田舎に引っ込んで、それこそ晩年は、絵でもかいてのんびり暮らそうかしら。そう思っていたの。夫はわたしの晩年の慰謝料くらいは面倒見てくれるでしょうよ。慰謝料の十倍以上は稼いで、あなたの会社にだって貢献したわ。贅沢なんていらないの。わたしがほしかったのは嫉妬とか、独占欲とか、そんな過剰な感情のない世界。もういいじゃない。あたしを解放して。訳の分からないあなたがたの独占欲から、わたしを解放して。

 

 わたしが妻だったのに、いつもしらない女が妻気取りで夫の隣を独占していた。わたしは知らない女に見下げられ、夫に愛されない中年女として彼女らの優越を見過ごさなければならなかった。その苦しみから解放して。

 貴方は有能だった。だからわたしの片腕にしてあげたのに、まるで脅すようにわたしの身体を求めるのはやめて。抱かせてくれなければ会社を辞める、と必死な顔で言うのはやめて。でももう会社は畳むから、あなたとの縁もこれまで。わたしを解放して。

 正体を隠してわたしに近づいて、夫に抱かれないわたしの身体を慰めて、わたしの会社にまで干渉してくるのはやめて。ただの愛人だったはずなのに、あなたは余計なことをした。わたしのライバル社の幹部を殺した。それがなに? 勝手にそんなことをしておいて、もう後戻りはできないって、なんて勝手なことを言うの。わたしはそんなこと貴方に頼んだ覚えはない。あなたの身勝手さからわたしを解放して。

 

 わたしが別れを切り出したら、彼らは豹変した。

 

 夫はおかしい。素直に別れてくれればいいのに、ダメだと言い出して聞かなかった。どうして? 今までと何ら変わりない。もう、とっくから一緒に暮らしてもいない。あなたとわたしの愛の巣だったはずの家には、別の女が妻気取りであなたの帰りを待っているのを知っている。じゃあ、別れなくてもいいから田舎町に家を用意して、と言ったらそれもダメだと言われた。会社は畳んでいいから、家に戻れと言い出す始末。貴方が家に住まわせている女はどうすると言ったら追い出すと言った。ちゃんちゃらおかしい。この男はおかしい。でもわたしは戻る気はない。

 わたしが会社をたたんで、夫と別れて田舎に引っ込むと言ったら、奴隷の片腕は結婚してくれと言い出した。コイツも頭がおかしい。この男の有能さがあれば、どんな企業でも今の地位にはなれる。わたしは経営の天才と言われたが、彼の助力もあってのことだ。なのに、そういった地位も皆捨てて、私と田舎町に引っ込むと? おまえはバカかと言ったら殴られた。奴隷の彼は言った。俺を置いて行かないで下さいと足に縋って泣きつく。ドイツもコイツもわたしの足がそんなに好きか。そんなに足にしがみつかなくても、殴られた衝撃で頭がブレて動けない。そんなわたしを嬉しそうに犯すコイツは、末期のバカだ。

 

 だけれど、コイツ以上にバカがいた。

 田舎に引っ込むからと別れを告げたら、マフィアの彼は、『じゃあ死ねよ』と簡単に言った。『俺のモノをやめるってンならおまえは死ね』と言われた。わたしはあなたのモノになった覚えはない。わたしはわたしだ。逃げたけどダメだった。わたしは彼に犯されて死んだ。彼はいつものように私を抱いて、それから愛おしそうに私を抱きしめ、それからピストルの引き金を引いた。わたしのマンションで起こった出来事だったから、わたしが死んだあと片腕の彼が来て、驚いて泣いて、自殺した。わたしは死んでたから、彼の大きな体が重いなんて思わなかったわ。

 

 嗚呼、わたしの一生ったら、頭のおかしな男たちに振り回されただけの一生だったのね。

 なんてわびしくて、滑稽なの。