「――ルゥ?」

 

 アズラエルが、不審げな顔でルナを覗き込んでいた。ルナは滂沱の涙を流して呆けていた。

 「ルゥって呼ばないで」

 ルナが言った途端に、アズラエルの顔が険しく顰められる。「おまえなァ、」

 「わたしの名前はルーシーだった。アロンゾに、ルゥって呼ばれてたの」

 「……は?」

 「だからアズも、あたしのことルゥって呼ぶの?」

 アズラエルは困惑した顔で唇を舐め、「アロンゾって誰だ」と聞いてきた。

 ルナは泣きながら、「アロンゾはアズだよ。マフィアのボスなの」

 「……」

 アズラエルは返事をしなかった。「あたしね、ルーシーはね、アロンゾをアズって呼んでた」

 「……」

 「へんなの。アズなんか大馬鹿だ。あたしを殺してばっかり!」

 「……」

 「あたしを殺して、殺して、殺してばっかり! また殺すの?」

 「……」

 アズラエルが何も言わないのは、意味が分からず絶句しているためではない。困っているのでもない。ただ言葉を失っているだけだ。ルナにもわかった。アズラエルは少なくとも、意味が分からないわけではない。

 

 ずっと、考えていたことがある。

 二人で暮らしている生活は、ふつうに穏やかなものだったけれど、それはこの地球行き宇宙船に乗っている間だけの限定期間だ。四年目に地球に着き、それぞれの星に帰ることになったら。

 アズラエルは結婚してほしいと望んでいるが、結婚したら、ルナはL18に行くのだろうか。だがアズラエルは傭兵をやめる気はないだろう。自分の親が、あれほど忌避していた軍事惑星群にルナを行かせるだろうか。ただでさえ、傭兵の妻には傭兵でないと、いろいろと危険だと、アズラエルの親も言っていた。危険というのは、正しく言えばルナの命が危険だということだ。ルナとアズラエルの恋には、乗り越えねばならない障害がある。

 クラウドとミシェルとは違う。クラウドはミシェルのために、心理作戦部をやめてL5系に行って暮らすとはっきり言っている。だから、ミシェルも安心していられるのだ。

 

 ルナは不安でならなかった。

 障害だらけの恋、だがそんなものが障害にも思えないほどの障害が、ルナにはあった。アズラエルだ。恋人そのものだ。傭兵の妻になったら命が危ない? そんなのはまだましだ。そんな不確定なものより、ずっと確かな危険が隣にいる。

 ルナにとっては、自分を最も愛してくれるひとが、一番自分を殺しやすい人物なのだ。

 それは洒落にならないほどの危険度だ。ルナの前世が蘇るたび、ルナはアズラエルに不安を新たにしていく。

 

 真砂名神社の階段、前世を浄化するという階段。

 グレンもアズラエルも、ミシェルもクラウドも、一様に同じことを言った。足が重かったと。グレンのたとえが一番すんなりハマった、まるで、階段に磁石が埋め込まれているようで、それと引き合う足が重くて、足を上げるのでさえ億劫だったと。

 ルナは、一番最初上った時もそんな感じはしなかった。

 たしかにふうふう言って上ったけれども、それは単に運動不足の自分が体力的につらかっただけだ。それを抜かせば足が重かったなんてことはないし、ふつうに上がった。

 自分の前世はあそこで浄化されたわけではない。なぜ。なにか意味があるのか。

 

 「――ルゥ」

 

 ふいに、アズラエルがルナの頬に手を伸ばすのに、ルナはビクリ! と怯えた。その途端、アズラエルの指先も怯えたように震えた。アズラエルの顔がつらそうに歪む。

 アズラエルの手が泳ぐ。ルナに触れていいか迷っているのだ。上げられて、下ろされる、右手で顔を覆い、シートに身を預けた。

 「アズ」

 これが、さっき殺してやると担架を切った男だろうか。ルナがアズラエルの腕に触れると、今度もまたアズラエルの腕が反射で跳ねる。

 「アズ」

 ルナから抱きつく。熱い体温。アズラエルのエキゾチックな匂い。髪の匂い。アズラエルの頭を抱えるように抱く。これでは叱られたこどものようだ。そんな彼も、ルナは「何度も」見てきた。

 「いいの」

 ルナは言った。

 「あたしはべつに、アズは怖くない」

 ルナの腕の中で、男の身体が震えた。

 「アズが怖いんじゃないの。ねえ。……あたしたち、何回、何百回、愛し合ったと思うの」

 

 まるで、ひとつひとつの前世がよみがえるたび、パズルが組み立てられていくような気がする。自分が完全体に近づいていくような気がする。どんなに侘しくて、悲しくて、つらい人生が重なっていたとしても、それは今の自分を形作るパーツだ。そう、それは自分を形作るパーツに過ぎず、けれど自分を構成している揺らぎないもの。それを強みにするには、今度こそ、幸せにならなきゃいけない。

 どんな過去を、重ねて来たとしても。

 

 「アズは――あたしを殺したいの?」

 アズラエルは首を振る。

 「じゃあ、どうしたいの?」

 涙さえ流していなかったが、アズラエルは辛そうな顔をして、「……あいしてる」と呟いた。

 「……愛してくれるの?」

 ルナは言った。それが自分の言葉であるような、そうではないような気もした。パーツが重なり合った自分。アズラエルは頷く。 

 「でも――どう愛していいか分からない」

 ルナは、アズラエルを強く抱きしめた。

 

 かわいそうな人。誰も悪くなく、誰もが悪かった。いつも怖がって、間違いながらあたしを愛して、失敗ばかりして、――くりかえしあたしに恨まれる道ばかり歩いてきた人。

 最初が悪かったのか、でも最初は最初、はじまりがどうであったとしても、「いつのころからか」あたしはアズを許して、好きになったのだ。それはまちがいない。

 

 「アズ大好き。――あいしてるの」

 アズラエルは、怖々とルナの背を抱きしめてくる。

 

あたしに愛されることが分かっていない人。自分は愛しても、あたしから愛が返ってくるとは思っていないひと。

 

 ――アズのせいで、あたしのせい。

 

 「……ルゥ。あいしてる」

 

 使い古されたこの言葉の、百億回も超える回数の内、きっと八割は怯えたこころで告げている。ルナの拒絶を心底恐れて。それなのに、いつまでも決してあきらめずにルナを愛することを繰り返す。

 互いに恐れて。

 互いに不安で。

 互いに懲りずに相手を愛そうとする。

 

 ルナがぎゅっとアズラエルを抱き返すと、アズラエルのこわばった力が抜け、ためらいながらも強い力でルナを胸に押し付けてきた。

 

 

 ……ふたりで、いつまでそうしていただろう。

 かなり長い時間なのは間違いなかった。アズラエルは一向にルナを離さなかったし、なにひとつ声をかけてきもしなかった。ルナもしゃべらなかったが、ルナは、アズラエルのだんだん穏やかになっていく心音と、暖かさにぼんやりと眠くなってきていた。睡魔に負けそうになったころ、アズラエルがようやくルナを離した。ルナの背を、そのおおきな掌でゆっくりと撫でさすりながら。