「――眠いのか」 目が半開きのルナを見て、アズラエルがクスッと笑う。普段のアズラエルに戻っていた。ルナが目を擦りながら首を振ると、アズラエルはルナを助手席に戻した。そして、ハンドルに突っ伏す。 「……俺は眠い」 珍しいこともあるものだ。 「くたびれたぜ、――なんだかな……」 そう呟いて、深いため息を吐く。 「アズ」 「……ン?」 「どこかに泊まろうよ。あたし運転していくから」 「おまえにゃ運転席は譲らねえ」 「にゃっ……! ひどい!!」 ルナが、いつものルナに戻ってアズラエルを揺さぶる。 ――ああ、この女をここへ置いて、どこか遠くへ逃げたい。 もう疲れた。正直くたびれたんだ、おまえを愛するのは。 俺を拒絶したままでいい。もういいんだ。 おまえがほかの男を愛するたびに、嫉妬に狂いそうになって、ぜんぶを破壊したくなる。 俺だけを見ないのなら、もう俺の前から消えてくれ。 でも、たとえ消えたとしても、今度は死に物狂いで追いかけてしまうのだ。 彼女がいないことが不安になって。 それがわかっているから、いつも俺が「終わらせようと」してしまう。 彼女がほかの男を愛するのを見ていたくなくて。 かといって、自分が彼女の前から消えることもできなくて。 めのまえの彼女を破壊して、後悔して、「終わらせる」。 どうして、それしか自分は選べないのだろう。 もう少しおだやかに彼女を愛せないのか。 ほんとうに彼女を愛しているなら、だれかとしあわせになることを、心から祝福できたはずだ。 それなのに。 それなのにどうして。 どうしていつも。 ――違うだろ、アシュエル。 アズラエルがピクリと頭を上げた。「……何か言ったか、ルゥ」 ルナは不思議そうな顔でアズラエルを見ている。Tシャツの裾を引っ張ったまま。 ――君は、俺を守って死んだんじゃないか。 「……ルゥ?」 ルナはきょろきょろとあたりを見回し、それからアズラエルを見つめ、ぶんぶんと首を振った。だが、これはルナの声だ。アタマに直接響いてくるような声。今のルナの声より少しハスキーな男の声。 「アズ……?」 「待て、喋るな」 ――もう終わったって、そう思ったんだろ? だって君は、あのとき、「はじめて」俺より先に死んだんだよ――? 「……ロメリア?」 アズラエルが呟いた名に、ルナが目を見開いた。アズラエルには何のことかさっぱりわからない。ロメリアが何者かなんてわからない。だが、この声の主はロメリアだと、頭の中の何かが告げていた。 ――気づいてアシュエル。“呪い”はもう、解けたんだよ。ルナはもう、月の女神はもう、君を許してる。だからもう平気だろ。 「アズ、……ロメリアがいるの?」 アズラエルは返事をしない。 ――君は俺を、心から愛してくれた。このうえなく信頼できる友情って形で。 だから心配いらない。俺は、ルナは、月の女神は、君が大好きだよ……。 アズラエルの頭の中で反響するように声は広がり、次第に遠くなっていく。 「アズ……?」 「……クソ。とうとう俺もイカレちまったってわけか」 アズラエルは大きく唸り、またハンドルに突っ伏す。今度は、アズラエルはすぐに起き上がらなかった。 「アズ……」 「ああ、もういい。少し寝る。――マジで眠い……」 アズラエルは本気で眠いようだ。車を道路わきに停め、エンジンを切る。 「三十分経ったら起こせ」 ハンドルに突っ伏して寝ようとするアズラエルの近くで、ルナの可愛い声がする。ルナが一生懸命アズラエルのTシャツの裾を引っ張ったり、起こしたりしようとしていた。 ふいにガクン、と背もたれが動いたのにアズラエルがビクリとするが、ルナがボタンを押して、アズラエルの背もたれを倒していたのだった。 その衝撃で驚いてハンドルから顔を上げると、ルナはその小さな手のひらでよいしょよいしょとアズラエルを押している。なにがしたいんだと思っていると、ルナはアズラエルのTシャツの脇腹のあたりを引っ張っている、倒れてやればいいのか、とアズラエルはすっかり倒された背もたれに、身を預けるようにして寝転がった。 気分的にだいぶ疲れていたし、ちょうどよかった。完全にではなく、ちょうど良い加減に倒されたシートが、今は心地よい。 そう思って目を閉じかけると、ルナが腹の上に乗ってくる。アズラエルはそのままにさせておいた。ルナから自分に触れてくるのは珍しいが、それは圧倒的に自分がルナに触れる回数が多いだけで、ただの比較だ。自分がルナに触れなければ、もしかしたらルナのほうから触れてくることもあるのだろうが、たまたま自分のほうがルナに触れる回数が多いだけ。 ルナの小柄な身体のほどよい重みが、心地いい。柔らかな身体も。どうしてルナは、こんなに柔らかくて、いい匂いがするのだろう。別に、糖でできているわけではないのに、ふわりと甘い匂いがすることがある。それはルナのシャンプーの匂いだったり、リップの香だったり、さまざまだ。だが、そんなものではなくて、ルナ自身から甘い匂いがする、その匂いが鼻を衝くと、いてもたってもいられなくなる。 ルナの、身体と同じくらい華奢でやわらかな指が、アズラエルの猫っ毛をすく。それはそれはやさしく。ライオンのたてがみでも梳くように。なるほど、この手になら手なづけられてもいい。 腹を出して寝転がるライオンなど無様極まりないが、その腹の上に寝そべってたてがみを撫ぜるのは、小さなウサギなのだった。甘やかされたライオンは、うとうとと瞼を閉じる。恐ろしく無防備だ。腹の上の子ウサギは、まるで考えてもいないだろう。この男は、いまや家族の前でさえ、腹を見せることはないのだ。 人がいれば眠れない。その浅い眠りは、風の音ひとつで破られる。そんな彼が女に髪を撫でられながら眠りにつくなど、あってはならないことだった。 こんな様を同僚が見たのなら、アズラエルを買っている者は憤慨して殴り飛ばすだろうし、そうでないものは彼の弱点を掴んだと心中でほくそ笑むだけだ。 彼を好いている女が見たのなら、嫉妬でルナは攻撃されるだろうし、アズラエルを多少知っている者なら、信じられないとばかりに目を剥くだろう。 ルナはそんなことは知らない。思ってもみない。 ルナにとっては、数少ないアズラエルの寝顔を見る絶好の機会でしかない。 いつもルナより先に起きていて、ルナよりあとに眠りにつく。夜中ルナが起きると、彼もほぼ同時に目を覚ます。昼寝もしない、ルナはアズラエルがいつ寝ているのか、ほんとうに分からなかった。 やがて、アズラエルの静かな寝息が聞こえてくる。 長い睫毛、高い鼻梁、綺麗に弧を描いた眉、――半開きの口が少しマヌケだけど。 (あたしの彼氏は……オットコまえだなあ……) ルナは眺めながら思った。本当に、アズラエルは寝ているようだ。ルナが頬をツンツンしても起きない。 (可愛い寝顔) アズラエルが起きている時にそれを口に出せば、「可愛いのはお前だ」というセクハラが返ってくるか、不機嫌にデコピンされるだろうことは分かっているが、可愛いと思ってしまうのは仕方ない。
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