いくら、この殺された妾が分別なしで愚かだとしても、いつまでも子供ではない。王様が正妻のところから離れて、この妾のもとへ来るまで三年は経っている。この王の正妻、とくに二番目の正妻は賢妻として書かれている。そんなひとが、妹のように思っていた妾を、いつまでも愚かなままにしておくだろうか。あるていど躾け直しはしたはずだ。密通だって、彼女の孤独を知っているから、見ないふりをして庇っていたに違いない。

妾はそのあいだ、騎士と密通していたのだ。キレ者の王を騙して。

 妾だって、いくらバカでも、「わたしを騎士さんへ嫁がせてください」などと、直接王へわけがない。

 (直接だぞ、直接。直接言うくらいバカなら、とっくの昔に言っているはずだ)

 この、マリーという女が暗躍した。妾と騎士の密通を、王様に告げ口したというほうが、よほど意味が分かる。まあ、神話というものは、意味不明の箇所が多いことは確かだから、何でも理屈を通せるわけじゃないことはわかっているが。

 

 (たぶん――俺が、この二番目の正妻。そして、グレンがこの「東の名君」。アズラエルが騎士――そして)

 セルゲイは、深い溜息を吐いた。

 (この、愚かで可愛い妾が、ルナちゃんだ――)

 

 『セルゲイ・E・ウィルキンソンさま。セルゲイ・E・ウィルキンソンさま。お電話が入っております。フロント・ナンバー5までお越しください』

 

 ひとが大勢いるせいで、完全には静かにならない館内に、目立つアナウンスが響く。

 (電話? だれだろう。まさか、エレナちゃんが早産とか?)

セルゲイはあわてて立った。コーヒーを持ち、ノートパソコンを畳んで。この大量の本は、このままテーブルに置いておけば、自動的に書棚へ返送される。機械がどんなシステムになっているのかセルゲイは興味が湧いたが、フロント・ナンバー5はここから遠い。のんびりしてはいられない。セルゲイは一階にあるフロント・ナンバー5まで、エレベーターを使うことにした。

 

 

 「――クラウド?」

 息を切らせるほど急いだ割りには――なんと、電話の相手はクラウドだった。

 「どうして、私の居場所が分かったの」

 セルゲイは、クラウドの持っている高性能追跡マシンのことは知らない。クラウドは電話向こうでごまかすように苦笑し、

 『まあ、その話もおいおい。君、時間あるかい』

 「ないってこともないけど、どうしたの」

 呑みの誘いだろうか。でも、クラウドとは、大勢でなら一緒に飲みに行ったことはあっても、ふたりで飲みに行ったことはない。

 『今から、K05まで来れる?』

 「ええ!? 今から?」

 『うん』

 セルゲイは時間を確かめた。一時半。

 「夜になっちゃうよ」

 『いいんだ。なるべく――というか、絶対来てくれ。“みんな”椿の宿にいる』

 「え? ちょっ、クラウド!」

 セルゲイの抗議の声もむなしく、電話は切られた。

 「――ああ。もう……」

 カレンがピロシキ作って待っててくれてるのに、とセルゲイはボヤきながら、今度は自宅マンションの電話番号を打った。

 夕飯はいらないと、カレンに言うために。

 

 

 

 さて。

 ルナはぽつねんと、ベッドの上に座っていた。

 もちろんここは、K08区のコテージである。

 ある程度、広さのある室内なので、ベッドから少し離れたところにある浴室の音は聞こえない。そこは今アズラエルが占領していて、シャワーを浴びている。

 いつもルナを先に浴室へと押し込むか、一緒に入ると言い出すのに、今日に限ってはアズラエルは、さっさと浴室へ直行した。

 

 チェックインしたのちこの部屋へ入り、ルナをキス攻めにしてヘロヘロにした挙句に、ルナをベッドへ放って浴室へ行ってしまった。

 ルナはベッドの上で、ぼーっと膝を抱えて丸まっている。いつも烏の行水のアズラエルは、今日は長かった。なかなか出てこない。

 

 いつもアズラエルは十分と経たずに出てくるけれど、せっかくバスタブに張った湯に入っていないのは明白だ。アズラエルは、ルナと入るとき以外はシャワーだけで済ませている。でも、チャンと身体はごしごし洗っているのを、ルナは分かっている。髪も洗うし身体ももちろん。アズラエルは綺麗好きだ。じゃあなんでいつも、あんなに早いのだろう。

 ルナは、バカなことを考えた。アズラエルの手が見えないほどスピード洗いだったらどうしよう。いつぞや見たマンガのように、手の動きが素早過ぎて、見えないのだ。あるいは、手が十本とかに見える。音速の身体洗い。恐ろしく素早い。人間の目には見えないスポンジさばき。そこまで考えてひとりでケタケタ笑ったルナは、部屋に一人であるのに咳払いをし、また丸まった。

 

 ……おなかすいた。

 

 そういえば、ルナはアズラエルの職業がいわゆる「傭兵」なのは最初から分かっているが、アズラエルが実際、どのくらい強いのかは分からないのだった。もちろんアズラエルは傭兵だから、仕事として人と取っ組み合ったり、戦ったりするわけで、――コンバットナイフの名人――と言われても、それがどんなものかは具体的に想像ができない。

 ルナに想像できることと言えば、音速で身体を洗っているかもしれないということくらいだ。とにかくアズラエルはせっかちというか、何でも素早いから、音速で身体を洗うくらいはするかもしれない。

 椿の宿の夢でも、そういえばアズラエルの仕事に関する場面は出てこなかった。コンバットナイフを使っているところも、だれかと格闘しているところも。見たのは銃の扱いくらいのものだ。ものすごく大きな銃を、十六かそこらのころから軽々と扱っていた。それはグレンも同じだったけれど。

 

 もちろん、見たことはない。

 ――だれかを、殺しているところなど。

 

 そう思ってすこしルナは身震いし、なんとなく「傭兵」、というものの現実感のなさにあきれ果てた。

 いろんな夢で、アズラエルの過去を見たとはいえ、ルナは戦争の場面は見ていない。

 

 ――アズは。

 

 ふかふかのベッドの上で寝転びながら考えていたルナは、浴室のドアがやっと開いたのに気付いた。アズラエルがバスローブ姿で出てくる。茶褐色の髪の毛はタオルで包まれていた。

 「ルゥ。メシ来たか?」

 メシ? ルナが首を振ると、アズラエルは「まだか」と言ってソファのある方へ行き、どっかりと座ってテレビをつけた。恒例のニュースチェック。

 いつのまに、ルームサービスを頼んでいたのだろう。やっぱりアズは音速の動きをするのだ。