八十話 夢 V




 

 ルナは、夜の遊園地をてくてく歩いていた。ひとりで。遠くの観覧車を見上げながら。

 

 「そこの、うさぎさん」

 ルナは声をかけられた。優しそうな老羊が、ルナに向かって微笑んでいる。

 「見ていかれませんか。すばらしい絵がそろっていますよ」

 老羊は、スタッフのパスカードを首から下げていた。彼が示すのは、メリーゴーランドの絵が壁面に描かれた、小ぢんまりとした建物。ルナは「はい!」と元気よく返事をして、ポケットから回数券を取り出した。五枚つづりの回数券。四枚残っていたので、一枚を老羊に手渡した。

 老羊は笑顔でそれを受け取り、ルナを館内へ促した。

 小さい建物だと思ったのに、なかは宮殿のように広い。キラキラと輝くシャンデリアの高い天井。綺麗な模様の壁に、絵画がずらりと並べられていた。

 

 「ここは、美術館なんですか」

 「そうです。遊園地の中でも、ずいぶん長くやっていたんですよ」

 老羊は、目に涙を浮かべて言った。

 「残念なことに、今日で閉館なんです」

 彼は目を潤ませていたが、悲しそうな表情ではない。むしろ、目的をやっと達成できたときのような、じつに晴れ晴れとした顔だった。

 「最後のお客様がうさぎさんです。記念に、お好きな絵を差し上げましょう。どうか、お選び下さい」

 「えっ!? いいんですか?」

 「ええ。いいんですよ。いいですとも」

 老羊は実に嬉しそうにそう言って、ルナに絵の説明をしながら、ふたりで長い長い回廊を歩いた。

 

 やがてルナは、一つの絵の前で、足を止めた。

 逞しい二人の男が、枯れ枝を抱いて嘆いている絵。

 ルナが絵の前で立ちすくんでいるのを見、老羊は優しく言った。

 「……この絵は、あなたにとっては痛みを覚えるばかりでしょう」

 「……ええ」

 ルナは絵を眺めながら、微笑んだ。

 「でも、もういいんです」

 そう言って、これをください、とルナは老羊にお願いした。老羊は合掌し、「お優しい女神さまに、真砂名の神の祝福を」と微笑んで告げ、掻き消えた。

 ルナはいつのまにか、遊園地の、もといた場所に立っていた。めのまえに観覧車がそびえたっている。メリーゴーランドの絵のついた建物はもうない。ルナのポケットには、リボンのついた、キラキラ輝くシャンデリアのミニチュアが入っていた。

 

 ルナがそれに見惚れていると、しくしくと泣く、誰かの声。

 誰だろうと思って顔を上げ――、ルナは仰天した。観覧車かと思った大きな建物は、大きな、それは大きな龍だったのだ。八つも頭がある。しかも、全部の頭に冷えピタを貼っているので、ルナは思わず笑ってしまった。

 

 「いったい、どうしたの。八つ頭の龍さん」

 ルナは聞いた。八つ頭の龍? ルナは知らないのだが、ルナの身体を借りて、誰かが勝手に喋っているようだった。

 「私の宝物が、燃やされてしまったのだ」

 龍はオイオイと泣いた。その泣き声は台風のようで、遊園地の遊具が片っ端から吹き飛ばされそうだった。

 「うさぎさん、どうしよう」

 「宝物って?」

 「船大工の兄弟の絵さ」

 ルナは、さっきそれを、老羊からもらう約束をしたのだ。だが美術館も老羊も跡形もなく消えてしまい、ルナの手に残されたのは絵ではなく、シャンデリアのミニチュア。

 

 「これをあげるよ」

 ルナはシャンデリアを龍に差し出した。龍はキョトンとしたが、やがて、大きな前足で、そっとそれを受け取った。「ありがとう」龍はぐずりながら、嵐のような小声で言った。

 「あんたには、世話になってばかりだ」

 「いいの」

 ルナうさぎは、龍の冷えピタをひとつもらった。

 「あんたも熱があるの」

 「いいえ」

 ルナは冷えピタを額に貼って、こう言った。

 「八日間も寝込んだら、みんなが困っちゃうわ。龍さん。あたしが一日分引き受けてあげる。はやく、元気になってね」

 

 

 

 「――ルナ!」

 「ルゥ、平気か?」

 ルナが目覚めると、アズラエルとグレンの顔があった。時刻は午前三時。周囲は真っ暗だった。額には冷えピタ。とても暑くて、息苦しい。二人の顔もあつくるしい。

ふたりが起きて、自分を覗き込んでいるということは、魘されでもしていたのだろうか。

 

 「……だいじょうぶです」

 ルナはぜえぜえ、息をしながら言った。

 「熱は下がるのです。あたしがもらったのは一日分だけ。明日の午後には下がるのです」

 そういって、うさぎはまたこてっと寝た。

 「……なんだと?」

 アズラエルとグレンは顔を見合わせたが、すでにうさぎはすぴすぴと夢の世界へ旅立っていた。

 

 「……下がるんだとよ」

 「……下がるのか」

 

 もらったのは一日分? また理解できねえこと、言ってやがる。

 猛獣二匹は首を傾げたが、うさぎのカオスにいちいち悩んでいても始まらない。

 

熱を出したルナを抱えて病院に着いたらすでに閉院、医者も、だれもおらず、中央区の病院に直行するだのK27区へ戻るだの、すったもんだした挙句、アズラエルたちは椿の宿へ駆け込んだのだった。そうしたら、件の町医者が椿の宿へ食事をしに来ていて、ルナを見てもらえた。蒼白顔のアズラエルとグレンに、医者はあっさり、「知恵熱ですね」と告げ、解熱剤を置いていった。

 「お父さんですか? そんなに心配せんでも、一晩寝りゃあ治りますよ」と言った中年医者にアズラエルは掴みかかるところだった。お父さんじゃねえよ。じゃあ、あんたがお父さんですかと聞かれた銀色頭の激怒っぷりをご想像下さい。

 パパじゃないです恋人です。

 二人でそう思っているのだから始末に負えず、クラウドがふたりの襟首を引っ掴んで廊下に引きずるまで、醜い争いは続いた。

 

 あの心配はなんだったのか。ルナはすうすうと気持ちよさそうに寝ている。風邪でもなくただの知恵熱。二人の狼狽っぷりは後々までクラウドに語り継がれそうだった。クラウドのいらぬ記憶力を侮ってはいけない。

 

 「……このやろう。人の心配も知らねえで」

 「……いつものことだろ。俺は寝る」

 

 そう言って、ルナを挟んで左側の布団に横たわったグレンだったが、朝、アズラエルが再び目覚めたときにはすでに彼はいなかった。帰ったのか。布団はすでに畳まれていた――というか、ぐっしゃぐしゃになって脇に寄せられていた。自分が畳むことになろうが、どうでもいい。アズラエルは、念願かなって、やっとルナと二人きりになったわけである。