昔と変わらない、赤いレンガ造りの洒落たアパートは、すぐ全容を現した。裏口へ回って、階段を上がる。

 「懐かしいね、オリーヴ」

 「だろ? 泊まりに来たのって、ほんの数年前だよな」

 古びた赤い絨毯や、明るい大きな窓も昔のままだ。

 「ちょっとまえに、大家からこのアパート買ったんだ。ボリスとベックが部屋借りて住んでるけど、アイツらはウチの傭兵だからさ」

 オリーヴはそれから、フライヤに耳打ちするように言った。このアパートの廊下は声が響く。

「ベックもボリスもタラシだからな。兄貴並みの。ぜったい部屋に誘われてもついてくんじゃねーぞ。何もしねえって言ってもだ。絶対、食われるからな!」

「分かってるわよ。でも大丈夫。今まで私がナンパされてるとこ見たことある?」

「……。……うんまあ、ねえな」

「集団でいるときにナンパされても、まず確実に私はスルーされるからね。あれこんな子いたっけ? って感じで。オリーヴは、だから私を夏休みに誘ってくれたんでしょ」

「……うん」

「兄貴が、連れてきた友達にコナかけなかったのフライヤが初めてだって感心してたじゃない。ここまでナンパされないってのもある意味奇跡じゃない? だからだいじょうぶ」

オリーヴは、「おかしいな〜、マジでそこ、おかしいんだよな? フライヤは可愛いのにさ」とブツブツ言っているが、フライヤは聞かないことにした。

そもそも、オリーヴだって、こんなちんくしゃを食おうとは思わないはずだ。女だって、可愛ければ即口説くオリーヴが、口説かないのもいい証拠。オリーヴに口説かれたいわけではないが、実際、女とみれば挨拶代わりに口説くL18の男にすら、ナンパされない自分なのだ。

あまりの自分のモテなさを悲観したころもあるが、ここまで徹底的だと、むしろ潔くあきらめがつくというものだ。逆に言えば、男に狙われる心配がなくていい。

 

 「大丈夫だったかい? 下町は物騒だったろ」

 

 階段を上がってきたフライヤとオリーヴに声をかけてくれたのは、オリーヴの母、エマルだった。いつも流しっぱなしの爆発髪を結わえ上げ、彼女はたくましい腕に、大きな段ボール箱を三つも抱えていた。

 「エマルさん、おはようございます。この辺り、――ずいぶんスラム化が進んだんですね。オリーヴが迎えに来てくれたから、助かりました」

 「ラリって銃ぶっ放すやつも珍しかないから、ほんとに気をつけな。外出るときはね」

 「はい。今日からよろしくお願いします」

 頭を下げたフライヤに、エマルは持ち前の大きな口をニッカリとさせて、

 「いい子だねえ。オリーヴのダチにしちゃ、礼儀がなってていい子だよ。こちらこそよろしくね、フライヤ!」

 ドア開けとくれオリーヴ、とエマルがいい、オリーヴは重たい木のドアを開けた。段ボールを持ったエマルが先に入り、フライヤが続いた。

 部屋の中では、アダムを含む男三人が机に向かっていた。ひとりは唸りながら紙にボールペンを走らせている。

 

 「よお、フライヤ、おはようさん」

 アダムがエマルの手から段ボールを受け取って、床に降ろした。

 「おはようございます、アダムさん。今日からよろしくお願いします」

 「おう。こっちこそよろしくな。あっちの髭もじゃのヘビースモーカーがボリスで、顔半分にラクガキしてンのがベックだ。ウチのメンバーはこれで全員だ。すくねえだろ。ははは、まァ、その分のんびりやってんだ。おめえも気負わずにな」

 顔半分が無精ひげに覆われていて、机の灰皿にたばこの吸い殻が山積みなのがボリスで、三十は超えていそうだった。顔の右半分が、トライバルで埋まっているのがベック。フライヤやオリーヴと同じくらいの年ごろに見える。

 「よろしく、お嬢ちゃん」

 「ンあ。よろしくな」

 「フライヤです。よろしく」

 ボリスもベックも、わざわざ机から立って、握手を求めてきた。見かけの割に、悪い人間ではなさそうだ。フライヤはほっとした。

ボリスはフライヤと握手をしたまま首をかしげ、

 「……オリーヴと同い年ってマジか?」といった。

 「え!? 冗談だろ、オリーヴと同い年!?」

 学校出たてのガキかと思ったぜ、と口にするベックに、容赦なくオリーヴの回し蹴りが飛ぶ。

 「てめえが老け顔なんだよクソベック!!」

 「ンだとオァ!? 雇い主の娘だからって容赦しねーぞ!?」

 腕まくりしてオリーヴに歯向かったベックは、哀れ、オリーヴの踵落としで、あっさり沈められた。

 「ちくしょうこの肉まんじゅう! いつか沈めてやる!」

 「豊満といえこのマネキン野郎! 顔の模様マジックで書き足してやろーか!?」

 「やめとけ、このバカタレが!」

 アダムがバチコン! とオリーヴの後頭部を叩いて、低レベルないさかいは終了した。

 「新入社員の前で、さっそくバカ晒してどうすんだいみっともない」

 エマルはふたたび部屋の外から段ボールを持ってきたようだった。増え続ける段ボール。段ボールが部屋に入ってくるたびに、みんなの顔が暗くなっていく気が、フライヤにはした。いったい、この箱の中身はなんだ。エマルは部屋を出たり入ったりし、結果、大きな段ボールが十二個、狭い部屋に積まれた。

 

 「ホラホラ! さっさとやんな! 間に合わねーじゃねえか」

 エマルに尻をひっぱたかれ、オリーヴとベックもにらみ合いながらそれぞれのデスクに着く。

 「さっそくで悪ィんだけどよ、フライヤ」

 アダムが段ボールをこじ開けながら、紙束を取り出していく。

 「年度末の申告がよ、一ヶ月切ってんだ」

 「――申告……」

 フライヤは、そういえばそろそろそんな時期だったと思い出した。では、この段ボールの中身は、帳簿か。税務の申告。でもまさか、傭兵の、これだけ小規模なグループが、そんなにまじめに確定申告。

 

 「や、税務の申告だけじゃないのさ。ウチは認定ばっか抱えてるからね。軍部のほうに、認定傭兵の働きっぷりも申告しなきゃならないんだ」

 「テキトーでも申告しなきゃ、認定の資格、取り上げられちまうからな」

 ボリスが、太い指でパソコンのキーをひとつずつ押している。ベックも、あー、とかうー、とか言いながら、嫌そうに、心底嫌そうに、キーを打っていた。

 「毎年、こんな面倒な作業あるなら、認定の資格なんて取らなかったのに!」

 オリーヴの魂の叫び。チマチマとした報告書書きが好きな傭兵などどこにもいない。そんなチマチマが好きなフライヤは、レア中のレアケースだ。

 「認定のほうが、軍部から仕事入ってくんだから。このご時世、認定じゃない傭兵だけでやってくのは無理だよ!」

 メフラー商社や白龍グループのような、昔から名が知れた傭兵グループでなければ、認定なしでやっていくのは不可能だろう。フライヤも理解できる。

 

 「嬢ちゃんはアレか? もう終わったのか」

 ボリスがフライヤに聞くと、オリーヴの長い足がボリスの椅子の背を蹴る。「嬢ちゃんじゃねえ。ちゃんとフライヤって呼びやがれ」

 「ああ、おう、悪かったよ――で、終わったのかフライヤは」

 「はあ、とっくに」

 フライヤの返事に、この部屋にいる、フライヤを抜かしたすべての人間は重い溜息を吐いた。それは羨ましいですね、という語句が染み込んだ重い溜息。

 事実、フライヤは申告書が家に届いたその日に書き上げて提出していた。ホワイト・ラビットがなくなってから、フライヤの傭兵としての仕事はゼロだったわけで、申告書にも仕事件数「ゼロ」と書けばいいだけだった。

 「フライヤ! これお願い」

 フライヤはエマルから税務用の書類を渡され、示されたデスクに着いた。型おくれのパソコンが、今にも壊れそうな電子音を発して唸っている。

 「しばらく書類仕事ばっかで、傭兵らしい仕事はないけど、よろしく頼むね」

 「だいじょうぶです」

 フライヤとしては、むしろデスクワークのほうが楽だ。