ルナは、目覚めた。

天井は、梁。木目。とても高い。外に風雅な庭。椿の宿の、花桃の部屋。

 「……おはようございます」

 だれにともなく挨拶し、むっくりと起き上がった。

 「アズはどこですかね?」

 誰もいないのにルナは質問し、「うさうさ、うさうさ……」と呟きながら布団からはい出た。ぺとりと自分の小さな手を額に当て、熱はすっかり下がっている、うん、よろしい。と呟いた。もしょもしょと目を擦りながらバッグから携帯を取り出して時間を確かめ、壁かけ時計の存在に気付いて「……」と一時停止したのち、また携帯をバッグにしまい入れた。午後一時半。

 

 「アズはどこですかね」

 ルナは再びつぶやき、部屋をうろうろした。「アズはどこですかね」

 「アズは……「おはようございます」

 軽いノックの音とともに襖が開き、おかみが姿を見せた。「あら、お熱は下がりましたか。お具合は、どうです?」

 湯気のたつどんぶりが載った盆をわきに置き、おかみはルナの傍へ来てルナの額と自身の額に、そのひんやりとした手を当てた。

 「お熱は下がりましたわねえ。よかった。アズラエルさんが、そろそろ起きるころだからと仰いまして。お昼をお持ちしました」

 「え? アズがそう言ったんですか?」

 「はい。ほんとうにお熱が下がっておりましたわね。驚きましたわ。おうどんでよろしかったですかしら」

 「はい! あっわかめうどんだ!」

 ルナはわかめがたっぷり入ったうどんに、喜んでありついた。以前も、サルーディーバと一緒におはようのうどんを食べたが、椿の宿のうどんはとてもおいしいのだ。

 

 「熱いですから、お気をつけて」

 おかみはルナの隣で、優雅な動作でほうじ茶を淹れてくれた。

 「ルナさん、お食事されるときは、髪の毛は結んだほうがよろしいですわね」

 「あ、はい」

 ルナが動く前に、さっさとルナの髪を手ぐしで整え、手持ちの髪ゴムで結わえてくれる。

 

 椿の宿では、ルナはすっかり有名人だった。神官でもないのに一週間眠りつづけて神夢を見、神官区域の居住者でもないのにしょっちゅう泊まっていくし。ZOO・コンペやらなにやらで、よく利用してくれるし――。

 いつのまにかすっかり馴染んでいて、宿の大半の従業員に名前を憶えられていた。おかみとも仲良くなっていて、ルナの中で、おかみは――マヒロさんというらしいが――カザマに次ぐ、第二のおかあさんと化していた。

 

 「アズラエルさんは、お電話中で」

 ルナが聞く前に、おかみが教えてくれた。

 「間もなくこちらへ参りますわ。それから、大湯のほう、お掃除が終わったところですので、入れますわよ。たくさん汗おかきになったでしょう」

 「ひゃい」

 ルナはうどんを食べながら返事をした。なんだかものすごくおなかがすいていた。ルナが必死になって食べているので、おかみは笑い、

 「熱は下がったとはいえ、汗冷えしませんようにね。では、ごゆっくり」

 「あひがとうごじゃいまふ」

 ルナが飲み干した茶碗にもういちどお茶を注いでから、おかみは戻って行った。

 

 「おう。熱下がったか」

 アズラエルがほどなくして戻ってきた。ルナはうどんのどんぶりを持ったまま叫んだ。

 「アじゅ!」

「なんだ」

 「あたしの熱が下がるって、アズ予言したの?」

 「誰がクサレ予言師の真似事なんかするか、バカ野郎。てめえが夜中に起きて、明日の午後にゃァ下がるって、言ったんだよ。自分でな」

 「へ? あたしが?」

 覚えていない。そんなことを言っただろうか。夜中、起きたことすら覚えていないのに。

 「だろうな。その件については、もう話すことはねえ。てめえは熱が下がった、それでいいだろ」

 アズラエルは、なんだか不機嫌そうだった。いつもアズラエルだったら、「ルゥ、熱下がったんだな、じゃあヤラせろ」と、抱きしめてチューぐらいのセクハラはあってしかるべきだが――ルナの額を大きな手で触ったくらいで、セクハラの語尾はなかった。どんぶりが障害になっていて、キスもなかった。

電話は、だれとしていたのだろう。あまりよくない電話であることは、ルナにもわかった。アズラエルが不機嫌だから。

 

 「アズ……?」

 「ルゥ、具合が悪くねえなら、とっとと身支度して、この宿とはオサラバだ」

 アズラエルは、昨夜この宿で不思議な夢でも見たのだろうか。ルナはもう慣れっこだが、「そういうコト」が嫌いなアズラエルには、うんざりする出来事であることは間違いない。――アズラエルにとってはうんざりすることが、最近、起きすぎた。だから不機嫌なのだろうか。ルナはそれを聞いたが、アズラエルは「夢なんか見てねえ」とあっさり言った。

 「とにかく、この宿が第二の我が家なんて事態は、ぜったいに避けるぞ」

 たしかに、ここ最近、椿の宿が第二の我が家になりつつあった。(あくまでルナの中だけで。)

 「いいじゃない。第二の我が家」

 「俺はゴメンだ。それから、今日は別の地区に移動して、そこで一泊したら明日はK06に行く」

 「え? K06? なんで」

 「用事ができたからだ」

 アズラエルの口調とニュアンスで、アズラエルの不機嫌は、この「K06での用事」に起因していると、ルナは分かった。ウサ耳がピーン! と閃いた。

 「まァ、もともとK06は旅行の日程にはいれてた。おまえが好きそうな地区だからな」

 「あたしが好きそうなの?」

 水族館とかあるのかな、とルナは思ったが、それより、こちらのほうが大事だったので、ルナは聞いた。

 「アズの用事って?」

 「道中話すよ。早く支度しろ。……もともと、おまえに電話してきたんだ。おまえは寝てるからって、俺が代わりに聞いた」

 「あたしに? アズ、でんわ、だれからだったの?」

 「メアリー・J・ラムコフ」

 ルナは首を傾げた。聞いたことがない名前だった。アズラエルは知っている? アズラエルの知人だろうか。

 

 「ロイドが面倒見てるばあさんの、娘だ」