ルナは追い立てられるようにして、アズラエルの車に乗り込んだ。大浴場で汗を流し、アズラエルに髪を乾かしてもらいながら全速力で準備をしたが、出発は三時を過ぎていた。アズラエルは、北側の地区に高速道路が通っていないことにぶつくさ言いながら、車を発進させた。

 

 「ほんとは、このまま西方面行って、K06は最後の方に寄るはずだったんだけどな。予定が狂いっぱなしだぜ」

 この一ヶ月の旅行――アズラエルはどの順番でどう回っていくか、しっかり予定を立てていた。椿の宿でグレンと鉢合わせたことから始まり、ルナとのラブラブでイチャイチャなふたりきりの旅行計画は、邪魔だらけでことごとく台無しになった。今日の日付では――予定としては、いまごろK23区あたりにいて、ルナの好きな博物館や美術館巡りをしているはずだったのに。

 とどめは、今朝来た電話だった。アズラエルは、一ヶ月のラブラブ旅行計画を、諦めることにした。

 「どうしても、おまえを連れて行きたい場所がある。そこは外せねえが、予定としては、K06に行った後は、――まあ、おまえのことだ。家に帰るって言いだすだろうからな。その用が済んだら、K19に行って、それで旅行は仕舞いだ」

 「K19? アズ、K19に行きたいの?」

 「おまえを連れていきてえんだよ。ほかに行きたい場所がありゃ、今度ピンポイントで行こう」

 この先、どんな邪魔が入るかもわからない。だから一ヶ月以内にあちこち周るのを諦めて、家に帰ってから、行きたい場所だけ行くことにしようとアズラエルは言うのだった。もとより、ルナに反対意見はない。ルナは、パンフレットの地図から目を離して言った。

 「今朝、その――メアリー・J・ラムコフさんから、何の電話だったの?」

 

 

 今朝のことだった。

アズラエルは室内風呂ではなく、大浴場のほうで汗を流した。

椿の宿で温泉に入ってからというもの、アズラエルは大きな風呂が大好きになっていた。もともと体が大きい彼は、狭い風呂では手足を縮めて入るしかなく、風呂は嫌いだった。そんな狭苦しい思いをして湯船に浸かるより、シャワーのほうが楽だ。それがどうだ。ここの大浴場は広くて、水深も深い。まるでプールだ。手足をゆっくり伸ばせる広い風呂は最高だった。椿の宿は好きではないが、ここの「温泉」は、アズラエルは好きになった。その大好きな大風呂に、心行くまで浸かった帰りに、アズラエルはフロントで呼び止められた。ルナに電話が来ているのだという。またクラウドだったらぶち殺す、と一瞬だけ凶悪な顔になりかけたが、相手は年配の女だと言うので、アズラエルの殺意は萎んだ。

 年配の女? 心当たりはない。まさかルナの母親か。ルナの周りに、年配の女といわれる女は、この宇宙船内では役員くらいしかいない。役員からの電話なら、役員だと宿の者は告げるだろう。

 アズラエルは、殺意が萎んだ上に、せっかく流してきたのにまた冷や汗をかきながら、咳払いをして、「俺が代わりに」と言った。

 ルナの母親、だったらどうする? 挨拶――なんて挨拶をしたらいい。心臓をドキドキさせながら受話器を受け取ったアズラエルの懸念は、完全に無駄だった。

 

 『あの――ルナ、さん?』

 

 アズラエルが「代わりました」というまえに、向こうから声が聞こえた――ルナを、さん付けするということは、母親ではない。アズラエルは固まり、それからバカな勘違いをした自分に呆れながら、一つ息を吐いて返事をした。

 「いいえ。ルナは今、電話に出られないので。俺はアズラエルと言います。ルナの、」 

 『あら――まあ。――あなたがアズラエルさん? 傭兵の』

 相手は、ルナだけではなく、アズラエルのことも知っているらしい。だが、アズラエルは、声の主に覚えはなかった。

 

 『ああ、そうね。わたしは知っていても、私たちのことは知らないわね。ごめんなさい、いつもロイドちゃんから聞いているものだから。はじめての気がしなくて。――私はメアリー・J・ラムコフ。ロイドちゃんには、私の母がお世話になっています』

 アズラエルは、そこではじめて、電話の相手がだれか悟った。

 「ロイドの、」

 『ええ。突然こんなお電話をして、申し訳ありません。ご自宅のほうへお電話しても留守電でしたし、ミシェルさんという方のほうへお電話してもお留守で――。リサさんと言う方にお電話したら、椿の宿――のほうでないかと伺ったものですから。ダメもとで。よかったわ、いらして』

 「ロイドが、どうかしたんですか」

 『ロイドちゃんがどうかしたというより――なにからご説明したらいいかしら――今日は、ロイドちゃんには黙ってお電話しています。キラちゃんのお友達のご連絡先は――ほんとうに申し訳ないですけれど、勝手に結婚式の招待状を見て。……もう、この招待状も無駄になってしまうかもしれないけれど』

 「……」

『ルナさんとアズラエルさんは、ご旅行に出かけてらっしゃるってお聞きしましたし、多分、ご存じないと思うんですけれども、キラちゃんが、そちらのほうへ――ええ、K27区のほうに帰られてるって、――ご存知でしたか』

 「……いいえ」

 アズラエルは、なんとなく用件を悟って、危うくうんざりしたため息をつきそうになった。

 

 『あの――こんなこと――私が言うのもおかしいのですけど。ロイドちゃんとキラちゃんが、その――』

 「別れたんですか」

 予兆はあった。ロイドからの相談を聞いていたアズラエルには。

 『ええ。そうなの』

 電話の主は、深いため息をひとつ。

 『知ってらしたのね。たぶん、ご存じないと思っていたの。キラちゃんは、私どもの区画に来てから、ほとんどそちらへ顔を出さなかったでしょう。あのこたちの問題ですからね――私たちが口を出すことでは、ほんとうはないのだけれども――でも、原因が私の母にあるとなれば、このまま黙ってもいられなくて』

 

 ロイドとキラが別れた。アズラエルは、なんとなく予感はしていた。ロイドの相談を聞いていた時から。

 たしかに、ロイドが世話をしているばあさんにも原因はあるかもしれないが、ほんとうの原因は、そこにはない。ロイドのトラウマだ。

 ロイド自身の考え方が変わらなければ、こればかりはどうしようもないとアズラエルは思う。アズラエルはロイドに、おまえがほんとうに欲しいものはなんなんだと、聞いた。自分で考えてみろと突き放したのが、この結果か。

 (やっぱり、俺の質問を勘違いしていやがったな、アイツ)

 曖昧な聞き方をした俺にも責任があるか、とアズラエルは反省した。

 

『……なにか、あなた、お聞きになっていて?』

 「まあ――ずっとロイドの話を聞いてましたから。だいたいの事情は、」

 『ロイドちゃんは、まだキラちゃんを愛しています。それはまちがいないと思いますよ。でも、キラちゃんは、私たちからの電話には出てくれないのよ。無理もないわ』

 「ロイドのほうから、別れを?」

 『どちらが先と言うことは、ないと思います。でも、キラちゃんは出ていってしまったの。私たちにお礼の手紙をくれて、だまってそのまま。ロイドちゃんは追わなかったし、私たちは――私と、夫ですけれど――キラちゃんを追うように、ロイドちゃんには勧めたの。でも、追わなかった。――私は何回か電話したのだけれど、留守電のままで』

 「ロイドは、キラが出て行ってから電話はしたんですか」

 『いいえ。――そのお話、長くなりますけれども、今してよろしいのかしら』

 「……」

 ダメだ。ダメに決まっている。人の痴話ゲンカに首を突っ込む趣味はねえ。聞いたら終わりだ。

アズラエルは一瞬の逡巡の後に、

 「よろしかったら、」

 と言った。

 「K06区は旅行の予定にも入れてました。どうせなら、直接話せませんか。俺も、別れた経緯は知らねえんで、話を聞きたい。ひさしぶりにロイドの顔も見てェし。あさってか明々後日、そっちに向かいます。着いたら電話します。そちらのご予定は?」

 『あら――まあ』

 電話口の声が、ほっとした空気に変わったのが分かった。

 『来てくださるの? 助かりますわ。私――あなたがたがよろしかったら、椿の宿へ伺おうと思ってましたの』

 「いや、俺たちがそちらへ。電話番号を、教えてほしいんですが」

 『喜んでお教えしますわ』

 メアリーの声は弾んでいた。相談できる相手ができて、ほっとしたのだろう。電話を切った後、アズラエルは肩全体でため息をはき、こう思った。

 

 ちくしょう、俺にもルナのおせっかいが移った。