ロイドは、宇宙船に乗ったばかりのころ、ひどく傷ついていた。

 

 ロイドの家族はL53でホテルを経営している。父親はホテルの経営者、母親も、ホテル関連の事業の経営者で、兄は父の事業の跡継ぎ、裕福な家ではあったが、家族関係は希薄だった。

 そもそも、母親は二人目を産む気はなかった。仕事の邪魔になるからだ。だが長男は父親のほうの跡継ぎ。母親は、自分の事業の跡継ぎが欲しかった。迷いながら妊娠をして、産んだ結果、母親は後悔した。彼女にとって、やはりこどもは邪魔だった。母親は二人目の子を厭うようになっていった。母親が厭うために、一人目の子も弟を嫌った。父親は跡継ぎにしか興味がない。ロイドを育てたベビーシッターは実に優秀で、愛情深かった。ロイドが寂しさを抱えつつも、極度に歪まなかった点では。

 成人したロイドは、家を出て、保育士になった。家を出たのは、追い出されたからだ。兄が妻を娶り、兄がロイドを嫌うので、その妻もロイドを疎んだ結果だ。

 ロイドを育てたベビーシッターは優しい年寄りだった。ロイドは彼女のようになりたくて、保育士の仕事を選んだ。ロイドは家を出て、彼女と、小さな「家族」になった。彼女にも、身寄りはなかったから。

 でも、不幸は立て続けに訪れた。ロイドが幼いころから年寄りだった彼女は死に、ロイドは身に覚えのない窃盗の罪を着せられて、保育士をクビになった。同僚が金を盗み、犯人をロイドに仕立て上げた。冤罪はすぐに晴れたが、ロイドは失職し、ただでさえ家族から疎まれていたロイドは、「二度と帰ってくるな」と勘当された。

 

 そして、運命の日。

 小さなバイトで食いつないでいたロイドのアパートに、転がり込んできた男がいた。ミシェル・K・ベネトリックス。冤罪事件のときに、ほんのわずかな間世話になった探偵だった。彼は数日、かくまって欲しいと言った。

 その夜だった。

 

――地球行き宇宙船のチケットが、彼の古いアパートに届いたのは。

 

 ロイドは宇宙船に乗ってから、無気力な日々を過ごしていた。疲れて、ひどく悲しくて、絶望しか頭の中にはなかった。静かな場所に行きたいと言ったロイドを、K06に連れてきてくれたのはタクシー運転手で、ロイドは日がな一日、公園のベンチでぼうっとしていた。

 その時話しかけてきたのが、ジェニファー・B・ラムコフ。

 わかいころ、自動車事故に遭って、一生車いす生活だという、貴族のおばあさんだった。

 

 ロイドと彼女は、たがいにたくさんの話をした。そして、仲良くなっていった。

すべてに無気力になっていたロイドに、「介護士」という新たな仕事の可能性を与えたのはジェニファーだったし、ロイドはジェニファーに、自分を育てたベビーシッターを重ねてもいた。

また、メアリーが結婚しなかったために孫を持つ楽しみが奪われていたジェニファーには――ロイドは理想的な「孫」だった。

 

 ジェニファーは貴族の称号を持つ、L57の富豪だった。地球に行くのが夢だったジェニファーのために、彼女の娘――メアリーがチケットを落札し、ふたりで宇宙船に乗った。

 貴族の称号と、代々受け継がれた広大な土地を持っていても、メアリーもジェニファーも事業家ではない。何不自由なく生活はできても、宇宙船のチケットを落札できるだけの現金はなかった。なのでメアリーは、老い先短い母のために、先祖代々の土地を、家屋敷をすべて売った。

 メアリーもジェニファーも、このまま地球に向かい、地球に着いたら親子二人でつつましい暮らしをして一生を終える気でいた。ジェニファーも先は短い。メアリーも例外ではなかった。父は早世し、ずっと車いす生活の母親の世話をしてきたメアリーは、還暦をすぎた今も独身だ。自分も、そう何十年も生きるとは思えなかった。

 

 ジェニファーとメアリーが宇宙船に乗ったとき、居住区にしたのはK09――貴族階級の人間が集まる区画だった。K06に越したのは、しばらくしてからのことだ。

 K09に住んでいた時分、隣に住んでいた紳士と親しくなった。L56から来た紳士で、メアリーと同い年。ふたりは恋と言うには淡いが、なぜだか初めて会った気がしないような――不思議な親しみを持つようになり、ジェニファーの後押しもあって結婚した。メアリーはいまさら結婚する気はなかったのだが、ジェニファーが「おまえが結婚しないと安心して死ねない」とゴネたことと、紳士の穏やかな性格にメアリー自身が惹かれたこともあり――ふたりは結ばれた。

 また、ロイドという存在が現れてくれたおかげで、母親につきっきりだったメアリーは、紳士と互いに分かりあう時間が持てるようになった。

 

 「ロイドちゃんには、本当に感謝しています」

 メアリーはひといきつくように、紅茶で喉を潤した。

 「もちろんキラちゃんにも――。あの子たちがいた日々は、賑やかで、とても楽しかった」

 メアリーのその言葉は、うわべだけのものではないことがルナにもわかった。メアリーも惜しんでいるのだ。キラとロイドと過ごした日々を。

 「――キラちゃんがはじめて私たちの家に来たときは、それはもう、驚きました」

 メアリーは小さく笑んだ。

 

 ロイドがキラを連れてK06に来たときはとても驚いた――なにしろ、キラの装いと言ったら、いままで彼らが見たこともない装いだったから。

 髪の毛は爆発していて、若いのに白髪、顔色は紫やら蛍光ピンクやらの模様が付いていて、ファッションの奇抜さと言ったらない。さすがのメアリーも紳士も、孫が可愛いジェニファーも、いくら事前に聞いていたとはいえ――ロイドは、「僕の彼女にびっくりしないでね」と何度も言っていた――けれど、声が出なかった。聞くのと見るのではインパクトも違う。おとなしいロイドが不良の女の子に騙されているのではと、ジェニファーも、メアリーも実のところたいへんに心配した。

これは打ち解けてからのことだが、冗談で、お化けかと思った、とジェニファーは何度もキラに言っていた。それほどまでに、キラのインパクトは強かった。

 

 「でも、」

 でも、話してみればキラはまったく普通の子で、優しい子だった。

 「……キラちゃんが、あんなに優しい子でなければ、こんなふうにはならなかったと思うんです」

 メアリーは呟いた。

 

 「キラちゃんは見た目の奇抜さに反して、ほんとうにいい子でした。よく気の付く子で――ロイドちゃんは優しいけど、どこか世間知らずでね、ちょっとね、介護士としては気配りが足らないんですけども。キラちゃんのほうが、よく母の気に入らないこととか、嫌なこととか、細かいところに気付いてくれて、母の扱いが上手でしたよ。母もね、私たちももちろん、キラちゃんが好きでした。だってあんなにいい子なのだもの。だけど、キラちゃんはロイドちゃんの彼女で、――つまりは、私たちの娘ではないんです」

 

 この宇宙船に乗って、何度言っても結婚しなかった娘が素晴らしい相手と結婚し、思いもかけない「孫」までできた――おまけに、その「孫」が結婚しようとしている――「孫」の結婚なんて、ジェニファーには夢でしかなかったのに。

ジェニファーの喜びと幸せは、この上ないものだった。至上の幸福に、彼女はつつまれていた。

 

「……きっと、安心しきってしまって、気が緩んだのね。アズラエルさんの言うとおり、」

メアリーの表情がすこし、歪んだ。

「母は、いま認知症です」