八十三話 エキセントリックな子猫と介護士のチワワ



 

『養子縁組の話が出てるわけでもないんだろ?』

『ええ。そうですよ』

メアリーの苦笑。

『ロイドちゃんと母が親しくなって、それで母が、介護士はロイドちゃんがいいと言った。それだけのことです。ロイドちゃんは介護士として勉強中の身で、こちらとしてもぜんぶ任せるわけにはいかなくて迷いましたけれど、ロイドちゃんの勉強にもなるからと、母が望んだんです。私も、母を完全に他人に任せるのはできない性分でしたから、そういう意味では良かった。でも、ロイドちゃんもキラちゃんもいい子ですけれど、養子縁組だのなんだの、そんな話は一度も出たことはありません。私も夫も、そんな気はないですし』

『じゃあ、その辺の話は、完璧ロイドの独り相撲じゃねえか』

『……誤解をさせてしまった私たちも、悪かったのでしょうね』

『もう、誰が悪いとかの話はなしだ』

アズラエルがレシートを持って立った。

『埒があかねえ。俺がロイドと話をつける。おまえらがはっきり言えねえなら、俺が言う。それでロイドがまだ分からねえなら俺はもう知らん』

 

 

ルナは、カフェを出てメアリーたちの家へ向かう途中、ずっとさっきの話を反芻していた。少し先を歩くメアリーも、ルナの後ろを不機嫌な顔でついてくるアズラエルも、ルナはみんな優しいと思う。――無論、キラも、ロイドも。

皆の優しさが、すれ違って、ずれ込んでしまっただけ。ルナはそう思った。

 

すでに日は暮れ、道には街灯の代わりにランプの灯りが等間隔に灯されていた。空には星が見え始めている。

カフェの裏手に回り、五分ほど歩いた、森に近い場所にメアリーたちの邸宅はあった。その屋敷は、朝、ルナたちがまえを通ってきた住宅街より隣の家との距離が離れていて、住居自体も大きかった。おそらくメアリーの屋敷は三階建てであったし、朝見た住居たちの三倍は大きな屋敷だった。メアリーたちの屋敷だけではない。同じような大きさの邸宅が、ルナの視界に入るだけで五軒はあった。

 

手入れされた庭へ入ると、入口には大きなランプがふたつ飾られていた。この区画の灯りは、ことごとくランプなのだろうか。チャイムを鳴らすと、扉が向こうから開いた。

「奥様、お帰りなさいませ」

中からメアリー程の年配の女が出てきて、「お客様でございますか? いらっしゃいませ」と言ってルナとアズラエルにお辞儀をした。メアリーは彼女をふたりに紹介した。

 

「船内役員で、介護士の方ですのよ」

「介護士?」

アズラエルが聞くと、メアリーは苦笑とも取れる微笑み方をした。

「……あなたがたが来てくださらなかったら、私、ロイドちゃんを解雇しようと思っていましたの」

ルナが驚いて目を見開いたのを見て、メアリーは申し訳なさそうに言った。

「もうそれしか、方法がないと思って――。ロイドちゃんを追い出したいわけではありません。でも、そうでもしないと、」

「気づかねえよな」

アズラエルも嘆息した。

「でもまあ、アイツのことだから、あんたたちに嫌われたって勘違いしそうだが」

 

「ロイドちゃんはいい子ですよ。あの年頃の子にしてはすぐキレないし、口調も穏やかで、根気強い。介護士に向いていますよ」

年配の介護士は、今回の事情もよく存じているようだった。

「ただちょっと、経験が足らないのね。それにまだ、勉強中だから」

 

「……彼女は、宇宙船に乗ったときに担当役員の方が勧めてくださったの。貴族の屋敷でメイドをつとめていた経験も長い方で、とてもよくしてくれます。今ではメイドと介護士と、我が家で両方努めてくださってるわ。キラちゃんがK27へ帰ったあたりから来ていただいたのだけど、彼女が来てからすべてのことが楽で――なんで最初からこうしていなかったかと、後悔したくらいですわ。――エリーさん、応接間にお茶をくださる? 三人分よ。お客様ふたりと、ロイドちゃんの分を」

「はい。承知しました奥様」

「あんたは、席を外すのか」

「夫が帰ったら、お邪魔させていただきます。――それまで、ゆっくりお話しなさってください」

 

メアリーが案内したのは、五十畳は軽くある、大きな暖炉が備え付けられた応接間だ。ロイドを呼んでくるからすこし待っていてくださいとメアリーは言い、部屋を出て行った。そのあとすぐに、エリーと言う女性が紅茶を運んできた。蜂蜜のロールケーキが添えられている。これは、以前キラがおみやげに買ってきてくれたものだ。キラは今、どうしているだろうか。ルナはキラのことを考えた。うさぎの口を尖らせて考えた。

ルナはさっきからまるで口を挟む必要も、話すこともなくてただ黙ってアズラエルとメアリー、二人の会話を聞いていただけだった。

「今日はずいぶんおとなしいな、ルゥ」

アズラエルが珍しい生き物でも見るような目でルナを見るが、ルナだって、いつもうさうさと騒がしいわけではないのだ。

 

アズラエルもルナも、ケーキには手を付けなかった。なんとなく、食べる気分ではなかったし。ルナはあした、キラのところへ行くつもりだった。ロイドが迎えにいくとか、ルナが迎えに行くとか、どんな結果になっても、キラに会いに行くつもりだった。

ルナがぼうっとキラのことを考えていると、ロイドがやってきた。バタバタと階段を駆け下りる音――急いているのか――バタンと勢いよくあけられた扉。息を弾ませたロイドがそこに立っていた。

 

「ア、  アズラエル――」

 ロイドは少し視線をずらせてルナを見た。「ルナちゃん、」

 「い、いらっしゃい――」

 

 ロイドの笑顔は、作った拍子に大きくゆがんだ。ひとつ、ふたつ、大粒の涙がロイドの、大きな瞳から零れ――アズラエルがそれを見て顔をしかめた。

 「ご、ごめ……。僕……」

 ロイドが涙をこらえながら、なんとか普通にしていようとネルのシャツの裾を握り、ルナたちの傍まで来た。髪はぼさぼさで、目には隈ができていた。おそらく彼は、ここ数日眠れなかったのだろう。

ルナもいるのだ。泣くのを必死で堪えていたロイドだったが、アズラエルのまえに立つと、堰を切ったようにしゃくり上げはじめた。

「ぼ、ぼく、ぼ、くは、」

強烈なしかめ面だったアズラエルが、やがて呆れた顔でふっと笑った。

「おまえ、バカにも程があるだろ」

 とたんにロイドの喉がこくりと鳴った。顔がくしゃくしゃに歪んだ。ひょい、とアズラエルが腕を伸ばしてロイドの頭を抱え込む。「ほら、泣け」

それがスイッチでもあったかのように、ロイドは声を放り出して泣いた。