僕は、しあわせになれるような気がしていた。おばあちゃんがキラと出会わせてくれた。そう、信じた。キラと出会って、それからもうひとりのおばあちゃんと出会って――。

 ジェニファーおばあちゃんを、しあわせにしてあげたかった。僕のほんとうのおばあちゃんの分も。だけど、ジェニファーおばあちゃんは、僕のことを忘れていく。日に日に、忘れていってしまう。とても怖かった。ずっとそばにいないと、そばにいても、僕を忘れてしまうから――。


 「……おばあちゃんが、僕を忘れちゃうんだ」

 ロイドは、震える声でつぶやいた。

 「一緒にいないと、僕を――、」

 

 「母は、あなたがずっと一緒にいることなど望んでないわ」

 キリリとした声のあとに、小さな嗚咽があった。

 ルナもアズラエルも、ロイドも――、はっとして、そちらを見た。いつのまにか、メアリーがそこにいた。メアリーだけではなく、彼女の震える肩を抱いて支える紳士もいた。彼は微笑んでロイドたちのほうを見ていたが、メアリーが、ハンカチをそっと頬に当てると、ゆっくりと彼女から手を離した。

 「……ごめんなさい。ノックしたのだけれど、返事がなかったからそのまま入ってしまって」

 誰も気づかなかったのだ。彼女はいつからここにいたのか――そしていつから話を聞いていたのか、誰も分からなかった。

 

 「ロイドちゃん、母は病気です。あなたが介護士なら、そのあたりをちゃんと弁えてもらわなくては」

 メアリーは涙を拭って、毅然と言った。

「私の母は、立派な方です。自分が車いす生活で身動きが取れなくても、不安など一言も口にせず、私がよそへ嫁ぐことをずっと望んでいた。そういうひとです」

メアリーは潤んだ瞳のまま、おそろしく姿勢のいい歩みで、ツカツカとロイドのほうへやってきた。穏やかだったはずの顔は怒っているように見えた。

 「……名ばかり残っている、貴族の末裔と言うのは面倒なものなのよ。ましてや男手がなければ。私たち親子も、婚姻と言う名のサギから身を守るのにどれだけ必死だったか。一つ間違えば、貴族とは名ばかりの、奴隷に成り下がります。名家の名と、祖先が残した土地が欲しくて、金を積んではわたしと結婚したがるひとが大勢いたわ。でも、そんな人間と結婚したところで不幸になるだけ。巧言を弄して近づいてくる愚かなひとびとから、私たち親子はなんとか身を守らねばならなかった。父が死んで何十年も、そんな修羅場に身を置いてきた母です。人を見抜く目は、誰にも負けません。キラちゃんはいい子です、あなたもね。母は、あなたたち二人の結婚を、心から祝福しているの。母が“ほんとうに”あなたの家族ならきっとこういうわ」

 メアリーはすうっと息を吸い、叫んだ。

 

 「何をしているの! 若い者がグズグズと! さっさとキラちゃんのもとへ行きなさい! こんな年寄りに構っていないで!」

 

その迫力にルナは押され、ロイドも怯えて引いたが、次の瞬間には、ロイドはメアリーに抱きすくめられていた。

 「アズラエルさんがわたくしの言いたいことをぜんぶ言ってくださったから、もう、何も言うことはないのだけれど」

 メアリーはロイドを抱きしめたまま、泣いた。

 「べつに私たち、家族だって、よかったのよ」

 びくりと、ロイドがメアリーの胸の中で震えた。

 「でも、あなた自身の意志を失ってしまうような家族になら、ならなくても良かった。あなたが傷ついて、不幸になるような家族になら、なりたくはないわ」

 「ロイド君」

 紳士――パドリーも、ロイドの頭をポン、と撫でた。

 「我々は――家族でないと、親しくはなれないのだろうか」

 

 そんなわけはなかった。それは、ロイド自身がよく分かっていることだった。止んでいた涙は、またロイドの目から溢れて、メアリーの胸元を濡らした。

 「ごめんなさい」

 ロイドはメアリーにしがみついて泣き、メアリーもまた潤んだ目をかくそうともせずにしっかりとロイドを抱きしめた。

 「ごめんなさい――ごめんなさい」

 

 泣きむせぶロイドを見て、ルナもいつのまにかもらい泣きしていた。

「なんでおまえまで泣いてンだ?」という、ほんとうに不思議そうな顔をしたアズラエルは、デリカシー皆無であることがルナには分かっているので、足を踏むだけで許してやることにした。

 

ロイドは泣いた。噎せかえるほど泣いた。ひとしきり泣いたロイドの頬をメアリーは包み込み、その額にキスをして、まるで自分の息子に言い聞かせるように告げた。

「さあ、ロイド。キラちゃんを迎えに行くのよ」

ロイドは、涙まみれの顔だったが、しっかりと頷いた。

「そして、キラちゃんを連れて、また私たちに会いに来て頂戴。それからは、あなたたちふたりの世界よ。あなたたちふたりが計画した、とてもすてきな結婚式に、わたしたちを招待して頂戴。バーベキューパーティーだっていいのよ。わたしたち、どこへだって行くわ。キラちゃんの作った、ウェディングドレスも見てみたいのよ、本当よ」

ロイドはふたたび泣いた。けれど、今度はメアリーの胸に縋ることはしなかった。ロイドはメアリーから離れて鼻をかみ、それから、その豹変ぶりにルナも驚くほどの落ち着いた声根で、言った。

 

「僕は今から、キラに会いに行きます」

 

今から? きっとキラのアパートに着くころには明日になってる、と思ったのはルナだけのようだった。誰もロイドを止めなかった。タクシーを呼んできます、と部屋を出ようとしたロイドに、アズラエルが制止の声をかけた。

「俺が連れてく」

ロイドは首を振った。

「ありがとうアズラエル。――でも、僕、」

「いいから乗って行け」

アズラエルは、車のキーをポケットから出してくるりと回した。

「まだ、おまえに教えることがあるんだ」

「教えること……?」

ロイドはルナと目を見合わせたが、ぜんぜん覚えのないルナはぷるぷると首を振った。アズラエルはニヤリと笑い、

「おまえにL18の男の必殺技を教えてやるよ。女と別れたくねえときにつかう、とっておきをな」

ロイドは、今度はメアリーたちときょとんとした顔を見合わせ、それから満面の笑顔で、笑った。