帰ってからの一週間は――一週間は、平和だった。

エルドリウスからの贈り物はぴたりとやみ、一度だけ、薔薇の花束といっしょに、また紅茶缶が送られてきた。フライヤは、複雑な心境ながら、それを受け取った。

そして。

フライヤが、三日の出張に行っているうちに、それは起こった。

 

 

「どう――なってるの」

 

以前オリーヴとコンビを組んだ任務と同じかたちで、フライヤがホテルで監視カメラを切る任務――を成し遂げて、自分の家に帰ってきたフライヤを待ち受けていたものは。

まず、家が、なくなっていた。

なくなっていたというか、空き家同然になっていた――家財道具一式、どこにもなかった。部屋はもぬけの殻。母親も、いなかった。

(まさか)

家賃は払えていたはずだ。まさか、母親がべつの借金をこしらえていたとか、まさか。

悪い想像ばかりが脳裏を駆け巡ったところで、大家の姿を見つけた。

「お、大家さん!」

「おやフライヤ! 忘れた荷物でもあったのかい」

想像を絶するめのまえに光景に、フライヤは耐え切れなくなって大家に泣きつきかけたが、大家の顔は明るかった。

「結婚すんだってね、おめでとうさん!」

「――え?」

寝耳に水だ。フライヤは絶句し、大家の次の言葉に、今度はアダム・ファミリーの事務所に向かって駆け出していた。

「L19の金持ちだって? いいねえ……やっとお母さん、楽させてあげられるんじゃないか。少ないけど、あたしも少し包んどいたよ。お母さんから受け取ってね」

 

「アダムさん!!」

出張先から直帰だったフライヤは、三日ぶりにアダム・ファミリーのアジトへ駆け込んだ。そこにはひさしぶりにアダム・ファミリーのメンバーが顔をそろえていて、なぜか、オリーヴが目を真っ赤に腫らせて泣いているのだ。急に鳴ったクラッカーの音に、フライヤは言いかけた言葉を失った。

「おめでとうさん!」

アダムもエマルも、笑顔でフライヤの肩を叩く。まさか、ここでも結婚の事を。なにがいったい、どうなっているのだ。母はどこへ行ったのだ。どうして、なぜ、結婚の話が、もはやきまったかのように――。

 

「L20の軍勤務、決まったんだってな!」

「は?」

ボリスとベックの祝福に、フライヤはあんぐりと口を開けた。

 

「っ、ひぐっ、なんでだよう〜! やだよう〜! フライヤ〜!!」

「バカタレ娘! 友達の門出を笑顔で送り出してやんなくて、どうすんだい!!」

そういうエマルも、涙ぐんでいる。

「短い間だったけど、楽しかったよ。あんたはとってもいい子だったしねえ。あっちに行っても、達者でやるんだよ。L20には、うちの息子もいるからさ、なにかあったらすぐ頼りな。あんたのことは言っておくから……、」

「エ、エマルさん!」

フライヤは、何をどう聞いていいのか――自分でも、事態を把握しきれていないのだ。結婚? L20の軍勤務? 意味が分からない。自分のいないところで、いったい、何が起こっていたのだ。

名を呼んだきり、口を噤んだフライヤの肩を、エマルは落ち着かせるようにさすった。

「急なことだとは思うけどね、でもやっぱりあんたは、傭兵グループで終わるような子じゃないよ」

「そうだ」

アダム・ファミリーの面々は、とっくにウィスキーの蓋をあけて出来上がっていた。アダムも、酔っぱらったいい気分の顔で大きく頷いた。

「オリーヴからずっと話は聞いてたがよう、おめえを雇って、俺もようく分かった! おめえさんは、軍のほうが、おめえさんの才能を発揮できると俺ァ思うぜ」

アダムはずいと、酒臭い顔をフライヤに近づけて、

「おめえさんは、少将になるんだ!」

と叫んだ。「うおおおお!!」という、多分意味の分かっていないボリスとベックの雄たけびが聞こえた。

「――へ?」

「こればっかは、おかしなこと言ってると思うけどねえ」

エマルは首を傾げつつ、「ありゃ? 大佐だったかな? 少将じゃなかったっけか?」と同じく首を傾げている夫を奇妙な目で見ていた。

「エルドリウスさんから、あんたをL20の軍に入れるって話を聞いたときから、なんかおかしいんだよ。あんたが大佐だの、少将になるだのへんなことばっかいって。そりゃあ、L20はL18と違って傭兵でも軍に入れるよ。でも傭兵編成の特殊部隊か、庶務部とか、うまくいったって軍曹あたりが関の山だよ。大佐なんて、なにをいってるんだか」

 

黒幕は、エルドリウスか!!

 

フライヤは、絶叫しそうになった。

 

「ほら! あんたら、早く別れを惜しむんだよ! あと一時間しかないんだから!」

「あ、あと一時間……?」

「そうだよ! エルドリウスさんがあと一時間で迎えに来るんだから。そうしたらあんた、もうL20に出発だよ!」

フライヤは、開いた口が塞がらなかった。

「ひでえよフライヤ! こんなに早く行っちまうんなら、なんで早く教えてくれなかったんだよ!」

泣きじゃくるオリーヴが、フライヤに抱きついてきた。オリーヴも酒臭かった。

「フライヤとォ、もっとお、遊びたかったのにいい! L20は近いようで遠いんだよおおお!」

フライヤは、あまりの展開の分からなさに、カチンと固まったまま絶句していた。

 

「やあ、準備できた?」

 

これは、ものすごいことになってるねえ、と呑気な声がしたと思ったら、エルドリウスが入口に立っていたのだった。フライヤは渾身の力で黒幕を睨みあげたはずだったのだが、エルドリウスのあの、正体不明の笑みにぶつかった瞬間、口から出る筈だった数々の文句がぷしゅうと消えた。

「エルドリウスさん! 早えよ! まだ一時間前! 別れ惜しむ時間もねえじゃんかよ!」

「悪いねオリーヴ。宇宙船の時間はもうすぐなんだ」

おんおん泣いて、フライヤにしがみついているオリーヴから易々引き剥がし、呆然自失するフライヤをエルドリウスは抱き寄せた。「ほら、フライヤ、みなに挨拶は?」

フライヤは、呆気にとられた顔でエルドリウスを見上げ――そしてアダム・ファミリーの面々を見た。

「達者でな!」

「元気でやれよ!」

「がんばれよ〜! 応援してるぜ!」

「いつでも戻ってきていいんだからな! これは別れじゃねーぞフライヤ! だからあたし、見送りにはいかねーかんな!」

赤いアパートの外に出ると、みんなが窓からフライヤに手を振っていた。フライヤも、呆然としたまま手を振り――リムジンは発進した。

 

「君のお母さんなら、私の家」

エルドリウスは、驚くべきことを淡々と口にした。笑顔装着済みで。

「!?」

「シルビアと実に気があったようでね。ガーデニングの話なんかして、まだ二日なのに、こっちが驚くほど仲良くやってるよ。それから、シルビアも君によろしくと。君のお母さんも、たまにL20に来れるようにするから」

「……!?」

「結婚式は、先延ばし。私が忙しいとかじゃなくて、あまり目立ったことはしないほうがいいという、私とお母さんとの話し合いの結論でね――ああ、それから、お母さんの足はね、いい医者が、私の息子にいるんだよ。彼に見てもらうことにした。今度逢わせよう」

「あの……」

「ン?」

「あの……私……、」

「いまさら、結婚しないという話なら聞かない」

エルドリウスは大層立派な笑顔で言った。

「君は私の妻だから、傭兵グループには置いておけない。分かるね? でも、君の勤務する部署は庶務部で、大して危険な仕事もないから心配いらない」

「……っあの、」

「それから、私と君の家はL20に買った。私はしばらくL20を拠点に動くさ。なに、私のことは構わなくていい。たぶん、留守がちになるだろうから、君は好きに暮らして」

「あの、」

「それからね、」

エルドリウスは、一度だけ笑みを消して、真面目な顔でフライヤに言った。

「寂しかったら、素直に寂しいということ」

フライヤは、また言葉とつばを飲み込んでしまった。

「勝手に私の気持ちを読んで別れを決意する前に、寂しいなら寂しいと言ってくれ」

「……はい」

「どんなに私が忙しくても、君が寂しいと言ってくれることは、嬉しいことであって迷惑ではないから」

「……」

「寂しいと言われたら、必ず会いに行く。できるだけすぐにね」

エルドリウスの目は、優しかった。きっと女性は、彼の何でも許してくれそうなこの目に、やられてしまうのだろう。フライヤは思った。

「あの、」

「何か質問は?」

「……………ありません」

エルドリウスは、フライヤの頭をぽんぽん、とやって、それからゆっくりと髪を撫でた。三つ編みのすきまに長い指をいれ、手ぐしで解く。フライヤは再び息が詰まりそうになったが、エルドリウスはもう片方の三つ編みも、そうやって解いた。メガネも取り去る。

「うん……」

エルドリウスは、フライヤが真っ赤になるほどしげしげとその顔を見つめて、

「これは、私だけの特権だな」

そういって、フライヤにメガネを返した。そして、器用にフライヤの髪をまた、編み込んでいく。

「今日からよろしくね、私の奥さん」

「……!?」

フライヤは、やはり言葉を失ったまま、返事ができなかったのだった。