振り返れば、それは当然だったのだと思う。

 彼女はいつも言っていたのだ。自分がそれに気が付かなかっただけ。彼女の望みは、好きな男と結婚して、子供を生み、そのこどもの成長を見つめていくこと。彼女には彼女の、願いがあったことを自分は忘れていた。いや、知ろうとしなかっただけなのかもしれない。彼女はいつでも自分の傍にいて、自分のわがままを見守った。俺が、カクテルで賞を取って、L53のロイヤルホテルのバーの支配人になったときも、彼女は喜んでくれた。まるで自分のことのように。だが、俺が地球行き宇宙船で、生涯の師と扇ぐこのマタドール・カフェのバーテンダー、エヴィ・G・アイゼナッハに出会い、彼のもとで働いていくことを決めたとき、手のひらを返したように去って行った。

 『あなたはいつも自分のことばかりで、私の幸せを考えてくれたことはないのね』と言って。








八十六話 エキセントリックな猫と、シェイカーを振るゴリラ



 

 デレクは、起きてから鳴りだした目覚ましを、瞬時に止めた。目覚ましの音はあまり好きではない。でも、朝からリラクゼーション・ミュージックやクラシックをかける趣味は、デレクにはなかった。クラシックやゆるいジャズなら、一日中店で聞いている。

 

まえの晩がどれほど遅くなろうが、毎朝七時、規則正しく起きて、ベッドを整え洗面所に行き、顔を洗い歯を磨きながら新聞を取りに行く。ヒゲを剃るのは後。それをデレクは、およそ十五分のあいだにすべてすませて食卓に着く。そして新聞にかるく目を通してからキッチンに立つ。その手順が少しでもずれると、一日の調子がまるで振るわないのだから、何年たっても軍人時代のくせが抜けないな、とデレクは思う。

 

 今朝は、なつかしい夢を見た。黒歴史に違いない、むかしの出来事だ。ケイトと別れたあとはしばらくショックから立ち直れなくて、何度も彼女の夢を見たが、もうずっと、見ていなかった。それどころか、彼女のことを忘れてさえいたのに、なぜ今更、こんな夢を見たんだろう。デレクは卵をふたつ、フライパンに落としながら考えた。

 

 デレクには、軍人時代からつきあっていた恋人がいた。ケイトといって、ふたつ下の、とても可愛い恋人だった。おなじ貴族軍人の家柄で、両親にもみとめられた、いずれ結婚するはずだった恋人だった。

 

 彼女は、デレクがカクテルのコンテストで優勝し、L53のホテルのバーの支配人に抜擢されたときも喜んでついてきてくれ、地球行き宇宙船に乗るときも、一緒に来てくれた。デレクにとって彼女は、デレクの夢を常に励まし、応援してくれる一番の理解者だったし、大切な人だった。だからデレクは、思い違いをしていた。いつでも彼女が、自分の願いをかなえてくれることに、甘えていたのだ。

 

 彼女にも彼女の意思があって、願いがあることに。

 

 きっと、バーの支配人にでもなったあたりに、結婚していれば良かったのかもしれない。そうすれば、すくなくとも彼女の願いはひとつ、叶えてあげられた。あのころは忙しすぎて、結婚のことも、こどものことも考えることすらできなかった、というのは、別れて後悔したころは、ただのいいわけだと分かっていた。

 地球行き宇宙船に乗ったのも、きっかけは、彼女が乗ってみたいなと言ったからだ。デレクにとっては、いつも支えてくれる彼女に対しての、プレゼントのつもりだった。

 でも、そんなプレゼントはいらなかったのだと、デレクは最終的に気付いた。

 彼女は、地球行き宇宙船に乗って、プロポーズを期待していただろう。愛する男からの。だが、彼女が心から信頼していた男から出た言葉は、ほかの男に対するプロポーズがごとき言葉だったのだ。

 

 デレクは、尊敬していた伝説のバーテンダーに出会えたことで、興奮状態にあって、彼女の気持ちを察してあげることができなかった。彼女の顔に浮かんだ、いままで見たことのない、冷えた面持ちも。

 今までだって彼女はついてきてくれたのだから、彼女も宇宙船に残るのが当然という気持ちが、デレクの中には知らずとあった。デレクは彼女に、思いを打ち明けた。エヴィの弟子になって、宇宙船内に永住すると。

 それに対しての彼女の返事は、「別れましょう」だった。

 ケイトはもう、話しあう時間すら持ってはくれずに、次の日には宇宙船を降りた。

デレクは悩んだ。どうして、じぶんの夢を応援してくれないんだと。今までずっと、励まし、応援してくれていたのに。いったい、自分の何が悪かったのか、なにが彼女をそんなに傷つけたのか、デレクにはまったくわからなかった。それどころか、彼女を恨みさえした。ケイトが去って行ったことを裏切りだと思っていた時期もある。どれだけ自分本位だったのかと、今では思い知らされる。

 

ケイトは当然、自分と一緒に宇宙船に残ってくれるものだと思っていた。順番を間違えていたのはデレクだ。一緒に残って欲しいなら、先にプロポーズしておくべきだったのだ。

 

 年月が経って、やっとだ。彼女の気持ちが分かったのは。

 彼女の意思を、無視し続けて来たのは自分だったということにデレクは気づいた。彼女は最初から望みを口にしていた。デレクと結婚して、子供を生んで、しあわせな家庭を作ること。

 それなのにデレクは、彼女が自分を支えるのは当然だというように、彼女が折れてくれるのをいいことに、常に自分のわがままを通してきた。

 地球行き宇宙船に乗ったのも、彼女へのプレゼントだと建前上言ってはいたが、デレクのためでもあるはずだった。デレクだって、カクテルの勉強のために新しい世界を覗きたいと思っていたのだから。

 きっと、デレクが彼女の願いをかなえてあげていたなら、別れることはなかったはずだ。それはべつに、全く大変なことではなかった。デレクには彼女しかいなかったし、彼女以外の誰と結婚しろというのだろう。

 

 結局、この悲惨な結果をもたらしたのは、忙しさを理由に結婚を先延ばしにしたデレク自身の怠惰と、自己中心な考えのせいだったとデレクは思っている。

 

 彼女が話しあいもせずに去ったのは、デレクに、彼女の言葉も気持ちも、通じていないと、彼女自身が悟ったからだった。

 

 デレクがそれを分かるまでに、ずいぶんと長い年月が必要だった。

 

新聞の字面を表面だけ追いながらデレクは、ケイトは元気かな、とそれこそ十年ぶりに思った。

結局のところ、宇宙船に乗って運命の相手と出会って人生が変わったのはデレクで、彼女は宇宙船に乗って、降りただけだ。十年来の恋人と別れて。

あれきり連絡も取っていないのだから、彼女が今どんな人生を歩んでいるのかデレクにはわからなかった。

 

あれから、だれとも付き合っていない。ケイトと別れてからは、誰とも。縁がなかったというわけではないのだが、ケイトが離れて行ったことがひとつの傷になって残っていることは確かで、デレクは、だれとも付き合える気がしないのだった。





「へえ、ケイトちゃんの夢をねえ」

 

エヴィ――マタドール・カフェの老マスター――は、もちろんケイトのことを知っている。デレクとケイトが別れた経緯も。

 

「ほんとに、久しぶりだったんですよ。……懐かしかったなあ」

「懐かしいと、思えるようになったの」

エヴィはデレクとカウンターに並んでグラスを磨きながら、そう言って笑んだ。

「いやあ、年ですかねえ。ここ数年、彼女のことは思い出すこともなかったんですよ。思い出すって言ったら、だれかと付き合う付き合わないの話になったときくらいで。どうしても彼女と比べてしまって、だれとも付き合えないってことは、あったんですけど。そういう浮いた話も、最近はなかったでしょ。だから、思い出すってことがずっとなかったんです」

「……」

「でもね、懐かしい思いの方がいまは強いんです。彼女のことも、あのころの自分のことも」

エヴィはそれを聞いて、今度こそ破顔した。

「やっぱりそれは君、年を取ったんだよ」

「そうですかね、……そうですよね」

「僕はまったく、年を取る気はしないけどね。まだ君より、恋にうつつを抜かすことができるという点では」

デレクも笑って、グラスをカウンターむかいの棚に並べていく。ふいに、予定や酒の注文のメモ用紙を貼りつけたコルクボードが視界に入り、デレクは何気なしに呟いた。

「あれ……。今夜、アズラエルたちが貸切の予約入れてるけど、」

「ああ。急だけど、常連さんだし、比較的混まない日だからOKしちゃったよ」

「珍しいですね、彼らが予約だなんて」

「キラちゃんとロイドちゃんが、結婚するんだってさ。今夜はその、前祝い」

「へえ……! そりゃ、めでたいな」

パッと顔を明るくさせたデレクは、結婚祝い用のカクテルの材料が切れていないかと、厨房のほうへ足を運んだのだった。