ロイドの祖母が亡くなったときは、ロイドも祖母も、ギリギリの生活をしていた。ギリギリの生活と言っても、L5系で生活していけるのだから、貧乏ではないと言われたものだが、とても一億デルの分配ができるような、資産を持っているようには見えなかった。

 

 「おまえはほんとうにおめでたいヤツだ」

 リックはロイドに背を向けたまま吐き捨てた。

 「ばあさんが、ルビンスキーのホテル業を、一代で、あそこまで築き上げたんだぜ?」

 「え……」

 リックが、初めて振り返ってロイドを見た。

 「ばあさんは、男に捨てられた意地であそこまでの事業を起こした。ばあさんにとっちゃ、自分の子供も道具だった。俺たちの母親を、好きな男と別れさせて、事業の拡大のためにむりやり俺たちの父親に嫁がせた。ばあさんは、自分を利用して裏切った男との間にできた娘が嫌いだった。俺たちの母親も、好きでもない男との間にできた俺たちが嫌いだった。憎しみと恨みの連鎖だよ。俺たちの家系は」

 ロイドは絶句して、言葉が出なかった。

 「ばあさんのほうのホテルが斜陽になったとき、俺たちの母親は手助けせずに乗っ取った。ばあさんは取締役を解かれた。そのあと、資産も全部押さえられて――一時は浮浪者になったこともあるみたいだぜ?」

 おかしそうに話すリックとは逆に、ロイドは両手で口を押えた。涙が零れた。

 「俺たちの母親が、ばあさんをおまえのベビーシッターとして雇った。拾ったが正解か。浮浪者の生活からは脱却できて良かっただろうな」

 「僕は――僕は、」

 「自分が、一番かわいそうな人間だったか? ロイド。家族から無視されて、誰にも愛されなくて、捨て鉢になって泣いたか? おめでたい人間だよおまえは。あの家族の中で、誰かが誰かを愛してたと、本気で思っていたのか」

 「リック……」

 「僕の名前を呼ぶな! おまえにだけは、呼ばれたくない!」

 リックは叫んだ。SPに「落ち着いてください」と肩を押さえられながら。

 「おまえのほうがまだマシだ。あの家族と離れて、誰かを好きに愛せるのなら」

 ロイドは、激しく嗚咽した。だれのために? リックと、――リックだけではない。

 「僕には最初から逃げ場も救いもなかった! あの家の跡継ぎとなるためだけに生まれた僕には!」

 「僕――」

 「おまえが、羨ましくて、大嫌いだ。もう、僕の視界に入るな」

 最後のリックの言葉は、震えていた。「社長、もう」とSPの静かな声が聞こえる。リックは足音荒く踵を返し――回転ドアを抜けようとした。「――リック!」

 その声が、あまりにも決然としていたがために、リックは二度と振り返るまいと思っていたのに、振り向いてしまった。

 「僕は――僕は、メールする。何度も、無視されても、君に……」

 リックは怒りのあまり唇を蒼褪めさせた。もう関わるなと言ったのに、

 「あの家族の中で、誰も互いを愛してないって? でも、僕は、リックが好きだよ。お兄ちゃんだもの……!」

 「僕は嫌いだ」

 リックの声は、今までで一番きつく、ロイドを拒絶していた。

 「でも僕は、君を愛するよ。ずっと。君が僕を愛してくれなくても」

 ロイドは、なんとか笑顔を作っていった。リックの返事はなかった。リックは何も言わずに回転扉を抜け、表に止まっていたスクアーロ――こちらは貸し切りの高級車――に乗って、行ってしまった。

 

 「ロイド……」

 ミシェルが背後にいた。「だいじょうぶか?」

 「僕は大丈夫だよ」

ロイドは赤い目を擦って、しっかりした口調で言った。

 「僕はたしかにおめでたいと思う。僕は何も知らなかった。でも、――たしかにおばあちゃんは、僕を愛していたと思う。そして、おばあちゃんは、僕の母親である娘のことも愛していた。もちろん、リックのことも」

 ロイドは微笑んだ。涙は次から次へとこぼれたが。

「この宇宙船に乗って、僕の拗ねた心をたくさんのともだちが癒してくれた。昔の僕にはできなかったけど、今は――リックに愛を分けられるだけ、僕はたくさん愛を貰っている」

 「ロイド」

 「愛はもらわなきゃ、分けられないよ。僕はそう思う。だから、いっぱい愛情を貰った僕が、今度はリックに分けるんだ」

 おまえはお人好しだ、と言いかけたミシェルは、すんでのところでそれを飲みこんだ。

 

 「それよりミシェル、君、今日ほとんど僕のところへ来なかったね」

 「言うなよ、それを」

 ミシェルは苦笑した。

 「薄情だとか言ってくれるなよ? おまえらのところに顔を出そうモンなら、リサと結婚はいつだとか、早くしろとか、けしかけられるに決まってる。それこそ今日は、おめでたい日だからな」

 ロイドは笑って、それからミシェルに言った。

 「リサちゃんには本気なんだろ? 僕は分かってる。リサちゃんは気にしてるようだけど、君は、べつにリサちゃんといると君の運がよくなると言われたから一緒にいるわけじゃない」

 「……さあ。どう思われようが、俺は構わない。カサンドラの話なんか信用しちゃいないし、俺には、女よりなにより、裁判のカタをつける方が先だ」

 「ミシェル……」

 「けじめだよ、これは。裁判が終わるまで、俺は誰とも結婚する気はないし、それでリサが俺に愛想を尽かすっていうなら、そこまでの話さ」

 パーティーに戻ろう、とミシェルがロイドの肩を叩いた。

 「……ミシェルの傷も、いつか癒えるといいと、僕も願ってる」

 ロイドの言葉に、ミシェルは今度こそ「お人好しめ」と肩を竦めた。

 「俺の場合は、傷とかなんとかの話じゃねえよ。けじめだって、言っただろ。――ほら、おまえだってまず、あの金の行く先を検討しなきゃならない」

 

 ミシェルとともにパーティー会場に戻ると、エルウィンたちが強張った顔で小切手を囲み、沈黙していた。そこには、アズラエルとクラウドの姿もあった。戻ってきたロイドの姿を見ると、エルウィンがようやくほっとしたように、ロイドに駆け寄った。

 「ああ、ロイドちゃん、お兄さんは?」

 「帰りました」

 「帰ってしまったの? 困ったわ、悪いけれど、ちゃんとこのお金は送り返してちょうだいね? 困ったわ、どうしましょう。危なくて――こんな大金。このレストランの人に頼んで、送り返すわけにはいかないのかしら――お金は、銀行よね。銀行は、どこだったかしら。マルカに銀行は、」

 「母さん、落ち着いてよ」

 身の置き所がないといわんばかりに右往左往するエルウィンを、キラが呆れてなだめた。

 

 「お義母さん、」

 ロイドも、言った。

 「さっきリックから聞きましたが、これは、僕の祖母の遺産で、僕の正当な取り分だそうです。リックは、僕の結婚祝いのためにこれを持って駆け付けてくれたんですよ」

 だれもが、そんなバカなという顔を隠さなかった。リックの冷酷さは、今ここにいる誰もが目の当たりにし、ロイドが虐げられてきた事実も聞いている。

 「きっと、あんな言い方しかできなかったんです。彼は、僕のために、こんなに遠くまで金と時間を使って、会いに来てくれるひとではなかった」

 「ロイドちゃん、」

 「お義母さん。――だからこれは、僕がもらった結婚祝いで、祖母の遺産です。だから僕がもらっても、構いませんか?」

 「え? ええ……」

 「カザマさん!」

 ロイドは、会場内のカザマを探した。今日は、カザマは何度も会場を出入りしてせわしなかったが、今は会場内にいた。だれかと歓談中だったが、ロイドの呼び声に、「はい」と返事をして、来てくれた。「どうしました?」

 ロイドは、念を押すように、エルウィンに告げた。

 「これは僕のお金です。だから、僕が、どんなふうに使っても、怒らないでくださいね」

 エルウィンは、困った顔で首を傾げた。

 

 「カザマさん、この一億デルの小切手で、地球行き宇宙船の乗船チケットを買いたいんです」

 ロイドの言葉に、意味がやっと分かったキラ――そしてルナも、口を開けた。ぽっかりと。真ん丸のお月さまのごとく。

 カザマは頷き、電子手帳を取り出す。

「オークションで売りに出されているチケットではなく、私どもを通じての正規のご購入でしたら、八千七百万デルでご購入できます」 

 「ではそれで、お願いしたいんです」

 「ご乗船する方のフルネームを。それから、ご連絡先を」

 「はい。一人目は、エルウィン・B・マクファーレンさん」

 「ロ、ロイドちゃん!」

 エルウィンも、やっと気づいた。慌てて、ロイドに取りすがって止めた。

 「それはいけないわ! ダメです!」

 「なぜ? 僕のお金を、どう使っても、怒らないで下さいと言いました」

 「言ったけれど――ダメよ。それはいけません。――そう、私にだって生活があるのよ。L77で過ごしてきた生活が。家もあるし、仕事も……」

 「母さん」

 今度はキラが、エルウィンに縋った。

 「あたし、母さんにも宇宙船に乗って欲しい」

 「キラ……」

 「母さんと、地球に行きたいよ……」

 ついに涙をこぼしたキラに、エルウィンは言葉をなくした。そこへデレクが、とどめの一言を差した。

 「俺も、エルウィンと昔みたいに、毎日仲良くおしゃべりしたい。――ダメかな」

 「も……」

 エルウィンの両目からもぼたぼたと涙が落ちた。それを隠すように後ろを向き、エルウィンは叫んだ。

 「もう! なんなのこの子たちったら――人の都合も考えずに――勝手ばかり――あたしは、――」

 「わがまま言わないの、キラちゃん」

 ジェニファーがエルウィンの傍にやってきて、それはそれは優しく言った。そしてデレクの手を取り、エルウィンの手と重ね合わせた。

 「キラちゃんは、うちの孫のロイドと結婚するのよ。そうでしょう?」

 デレクもエルウィンも、耳の先まで赤くなった。さっきからジェニファーが言っていたのは、エルウィンとデレクのことだったのか。