八十八話 ジャータカでもないその隙間 終



 

 ルナは、キョウカイのまえに立っていた。

快晴の、雲一つない青空に、背後には見晴らしのいい海。ウミツバメの鳴く声がする。水平線からあがったばかりの柔らかな日差しは、健やかな朝だということをルナに知らせていた。

 ふと気づくと、キョウカイの扉はすっかり開け放たれていたのであった。

 以前来たときは、「うさぎ・コンペのあとで来てください」と、ピンクのうさぎに門前払いをされたルナである。開け放たれた観音開きの扉は、涼しい海風に揺られて、時折キイと鳴いた。

 ルナは、誘われるように中に入った。中にはだれもいない。

 キョウカイというから、教会のような内装を想像していたルナは、いい意味で裏切られた。中はたしかに教会のように、長いベンチが規則正しく並んでいたが、周囲を囲む、そびえたつ本棚が、文字通り“教会”ではないことを示していた。ふつう、教会にあるはずの、正面に掲げられる神なるものの存在はなかったし、ただただ、てっぺんが見えないくらい高くそびえる、螺旋状の本棚があっただけだ。本棚のてっぺんは、あまりに遠すぎて見えない。空まで突き抜けているのではないかと思わせるほどの、高さだった。

 

 「やあ」

 誰もいないと思っていたのに。ルナは声を掛けられて、驚いて前方を見た。そこには、チョコレート色のうさぎが本を開いて立っていた。

 「僕を覚えている?」

 ルナは尋ねられて少し首を傾げた。――うさぎ・コンペのときに、いただろうか。ルナはすぐには答えられなかったが、チョコレート色のうさぎは微笑んだ。

 「覚えていてくれて嬉しいよ」

 チョコレート色のうさぎは、本を畳んでベンチに置き、ルナのほうへやってきて、もっふりとした両手でルナの手を握った。

「僕は、“導きのうさぎ”」

 「え、えっと、あたしは……」

 「知ってる。“月を眺める子うさぎ”さん」

 うさぎは、微笑んで言った。

 「僕は、君に気付きを与えるために生まれ変わるんだ」

 「え?」

 「残念ながら、“真っ赤な子うさぎ”は、君に気付きを与える役目を放棄してしまった」

 導きのうさぎは、少し怒ったように言った。

 「本来なら、君に“気づき”を与え、天命を悟らせるのは真っ赤な子うさぎの役目だった。けれど彼女は、自分も情熱的な恋をしたいばっかりに、役目を放棄してしまったんだよ」

 「……」

 「ほんとうに残念だ。真っ赤な子うさぎは、君をライバル視している。――それでも、役割を全うできれば、彼女も幸せな恋ができたはずなのに。彼女が意地になって、君より素敵な恋をすると意気込んでしまったために、彼女の運命の歯車は狂いだした。ほんとうなら、“遠い記憶の宴”で、彼女と君は、友人になるはずだったのに」

 そういって、チョコレート色のうさぎは、どこか遠い目をした。

 「それでも彼女は、“あんな結末”になっても、恋ができたから幸せなんだろうか……」

 ルナは、黙って聞いていたが、

 「僕には、分からない」

 そういって導きのうさぎは黙り込んでしまった。それがとても悲しそうに見えたので、ルナは励まそうと思ったのだが、やがて導きのうさぎは顔を上げた。

 「僕は、幸せだ」

 なにがあろうとも、と彼は付け加えた。

 「別れは別れじゃない。君なら分かるはずだ。僕らは別れることになっても、きっとまた出会える」

 うさぎの黒いつぶらな目は、潤んでいた。

 「さあ、ルナ。出発の時間だよ」

 

 導きのうさぎに手を引かれ、ルナはキョウカイを出た。導きのうさぎについて港をてくてく歩いていくと、遊園地が見えてきた。そして――その隣の広い道路が――彼方まで見渡せる。霧は晴れ、どこまでも一本道が続いているのが見えた。

 この道はまだ通れないと、以前アズラエルに言われた道だ。通れるようになったのか。

 

 「アズは?」

 ルナは、思わず聞いた。

 「セルゲイは? ――グレンは?」

 

 「もう、とっくにあっちで、君を待っている」

 「あっち」とは? ルナは聞きたかったが、導きのうさぎは、ルナの背を押すように言った。

 「僕もすぐ、君を追いかけるよ」

 「あなたは――?」

 「必ず、また君と出会う。――さあルナ、君の運命が、今回り出すよ」

 

 ルナは、彼の名を知っている気がした。けれど、一度紡いだはずの彼の名を、ルナは次の瞬間には思い出せなくなっていた。道路が、まるでエスカレーターのように滑り出す。道路が勝手にルナを運んでいく。導きのうさぎが、声を張り上げた。

 


 「地球行き宇宙船で会おう! 僕のママ!」