ルナは、キョウカイのまえに立っていた。 快晴の、雲一つない青空に、背後には見晴らしのいい海。ウミツバメの鳴く声がする。水平線からあがったばかりの柔らかな日差しは、健やかな朝だということをルナに知らせていた。 ふと気づくと、キョウカイの扉はすっかり開け放たれていたのであった。 以前来たときは、「うさぎ・コンペのあとで来てください」と、ピンクのうさぎに門前払いをされたルナである。開け放たれた観音開きの扉は、涼しい海風に揺られて、時折キイと鳴いた。 ルナは、誘われるように中に入った。中にはだれもいない。 キョウカイというから、教会のような内装を想像していたルナは、いい意味で裏切られた。中はたしかに教会のように、長いベンチが規則正しく並んでいたが、周囲を囲む、そびえたつ本棚が、文字通り“教会”ではないことを示していた。ふつう、教会にあるはずの、正面に掲げられる神なるものの存在はなかったし、ただただ、てっぺんが見えないくらい高くそびえる、螺旋状の本棚があっただけだ。本棚のてっぺんは、あまりに遠すぎて見えない。空まで突き抜けているのではないかと思わせるほどの、高さだった。 「やあ」 誰もいないと思っていたのに。ルナは声を掛けられて、驚いて前方を見た。そこには、チョコレート色のうさぎが本を開いて立っていた。 「僕を覚えている?」 ルナは尋ねられて少し首を傾げた。――うさぎ・コンペのときに、いただろうか。ルナはすぐには答えられなかったが、チョコレート色のうさぎは微笑んだ。 「覚えていてくれて嬉しいよ」 チョコレート色のうさぎは、本を畳んでベンチに置き、ルナのほうへやってきて、もっふりとした両手でルナの手を握った。 「僕は、“導きのうさぎ”」 「え、えっと、あたしは……」 「知ってる。“月を眺める子うさぎ”さん」 うさぎは、微笑んで言った。 「僕は、君に気付きを与えるために生まれ変わるんだ」 「え?」 「残念ながら、“真っ赤な子うさぎ”は、君に気付きを与える役目を放棄してしまった」 導きのうさぎは、少し怒ったように言った。 「本来なら、君に“気づき”を与え、天命を悟らせるのは真っ赤な子うさぎの役目だった。けれど彼女は、自分も情熱的な恋をしたいばっかりに、役目を放棄してしまったんだよ」 「……」 「ほんとうに残念だ。真っ赤な子うさぎは、君をライバル視している。――それでも、役割を全うできれば、彼女も幸せな恋ができたはずなのに。彼女が意地になって、君より素敵な恋をすると意気込んでしまったために、彼女の運命の歯車は狂いだした。ほんとうなら、“遠い記憶の宴”で、彼女と君は、友人になるはずだったのに」 そういって、チョコレート色のうさぎは、どこか遠い目をした。 「それでも彼女は、“あんな結末”になっても、恋ができたから幸せなんだろうか……」 ルナは、黙って聞いていたが、 「僕には、分からない」 そういって導きのうさぎは黙り込んでしまった。それがとても悲しそうに見えたので、ルナは励まそうと思ったのだが、やがて導きのうさぎは顔を上げた。 「僕は、幸せだ」 なにがあろうとも、と彼は付け加えた。 「別れは別れじゃない。君なら分かるはずだ。僕らは別れることになっても、きっとまた出会える」 うさぎの黒いつぶらな目は、潤んでいた。 「さあ、ルナ。出発の時間だよ」 導きのうさぎに手を引かれ、ルナはキョウカイを出た。導きのうさぎについて港をてくてく歩いていくと、遊園地が見えてきた。そして――その隣の広い道路が――彼方まで見渡せる。霧は晴れ、どこまでも一本道が続いているのが見えた。 この道はまだ通れないと、以前アズラエルに言われた道だ。通れるようになったのか。 「アズは?」 ルナは、思わず聞いた。 「セルゲイは? ――グレンは?」 「もう、とっくにあっちで、君を待っている」 「あっち」とは? ルナは聞きたかったが、導きのうさぎは、ルナの背を押すように言った。 「僕もすぐ、君を追いかけるよ」 「あなたは――?」 「必ず、また君と出会う。――さあルナ、君の運命が、今回り出すよ」 ルナは、彼の名を知っている気がした。けれど、一度紡いだはずの彼の名を、ルナは次の瞬間には思い出せなくなっていた。道路が、まるでエスカレーターのように滑り出す。道路が勝手にルナを運んでいく。導きのうさぎが、声を張り上げた。 「地球行き宇宙船で会おう! 僕のママ!」 |