エレナは赤ん坊を撫でながら、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

 「あたしは、ジュリの母親じゃない。今からは、この子の母親なの」

 「……」

 「ジュリはジュリで、この宇宙船で、自分のしあわせを掴んでいってほしい。そのためにあの子は、学校に通ってるんだ。あたしがあの子を連れて行く先に、あの子のしあわせがあるんなら、あたしは連れて行く。だけど、そうじゃないなら、連れていっちゃいけない。あたしがあの子を連れて行く先には、進歩はないよ。皆があの子の面倒を見て、それにあの子が甘える。それじゃすっかり元の木阿弥に戻っちまうよ。ルナ、あんたと会ったころみたいに」

 「エレナ……」

 「だからあたしは、あの子を置いていくよ。あの子がどんなに泣いても。寂しがっても」

 エレナは険しい顔をして、まるでエレナ自身が寂しさに耐えているようだった。

 かつてエレナも居住区を移して、ジュリから離れたことがある。けれどそれは同じ宇宙船内にいて、その気になればいつでも会える距離だった。でも、今度は違う。エレナはルーイとともにL52に行くのだ。おいそれと会える距離ではない場所に。

 

 「そしてこれは、単にあたしのわがままだけど」

 エレナは呟いた。

 「ジュリにはあたしのかわりに、ルナと一緒に地球までたどり着いてほしいんだ……」

 

 これが、エレナの一番の本音かもしれなかった。あれほど、地球に行きたがっていたエレナだ。ルーイとともに宇宙船を降りることを、ひどく悩んだだろう。けれど、今まで自分に尽くしてくれたルーイの頼みを、きっと断ることができなかったのだ。それは同時に、一緒に暮らしてきた日々で、ルーイのことを信頼することができたから、なのかもしれない。

 

 「そういうわけで、あたしたちが宇宙船を出る直前まで、ジュリには、内緒にしておこうと思うんだ。だからみんな、このことをジュリには言わないでほしい」 

 「……分かった」

 返事をしたのは、アズラエルだけだった。

 クラウドも、それからエドワードたちも、納得したとは言えない顔だった。エドワードたちも、あのバーベキューパーティーでジュリには会っている。彼女が、だれかの助けなしに、まともに生活できるとは、彼らも思わなかった。

 ましてや、一番身近で、姉妹のように暮らしてきたエレナと離れることに、ジュリは耐えられるのだろうか。あの、子供同然のジュリが。

 

 「あたしが、置いてってと言ったんだよ」

 カレンが、皆の表情を見て苦笑した。

 「ジュリはあたしの運命の相手だからさ。せっかく会えたのに、エレナに連れて行ってもらっちゃ困るし」

 カレンたちは、一番身近で、ジュリとエレナと暮らしてきた。エレナがジュリを置いて別の区画に住んだとき、ジュリが毎日、エレナを探して泣きわめいていたのも覚えている。

 そのカレンたちが、ジュリを置いて行けということは、だいじょうぶだと判断したためだろう。

 「でもまあ、今それを言って、ジュリが素直に納得するとはだれも思ってねえよ。アイツもガキだってことに変わりはねえから。赤ん坊が生まれたてってこともあるし、あまりジュリを刺激しねえほうがいいって結論に達してだな」

 「うん。たぶん、降りる日にちが決まっても、すぐってことにはならない。だから、降りる日にちが決まったら、あたしはジュリに言おうと思う。……マックスさんにも来てもらって、ジュリに話すよ」

 「マックスさんには、もう言ってあるの」

 クラウドの質問には、エレナが頷いた。

 「やっぱりマックスさんも、ジュリのことを一番に気にかけてくれて。でも、ジュリは宇宙船に置いていったほうがいいって、あの人もそう言ったんだ」

 「――そうか」

セルゲイも、言葉を繋ぐ。

「赤ちゃんの首が座ってからと言っても、お父さんの具合が急変すれば、すぐに宇宙船を降りなきゃいけないかもしれない。だから、今のうちに皆に言っておけば、思い出づくりができるだろ? 私がルーイたちにそう勧めたんだ。エレナちゃんの言うことは私にも分かるからね。――いい機会だと思う。ジュリちゃんも、エレナちゃんから自立するいい機会」

セルゲイが言うことにはなぜかみな納得するから、不思議だった。

「ジュリちゃんを置いていくと言ったって、ただひとり残していくわけじゃない。私もカレンも、グレンもいるから、だいじょうぶだよ」

 

それからたわいない話へと切り替わり、――グレンとセルゲイは構う対象を赤ん坊からルナへと移し、「俺の子供を生んでくれ」とルナに迫ってアズラエルに撃墜されるグレンとか、「私はルナちゃん似の栗色の髪の女の子がいい」と理想を語るセルゲイとか、「あたしもルナ似の赤ちゃん欲しい」とカレンに抱きすくめられるルナとか、いつも通りの光景が見れた。

エドワードが一番赤ん坊を抱いたし、(これから抱くことになるんだから練習練習! とエレナに言われたせいもある)シナモンが「子供欲しいなあ」と言いだしてジルベールが目を丸くしたり、クラウドに「ミシェル似のこども……」と視線だけで追い詰められるミシェルがいたりした。

 

 「クラウドあんた、意外と赤ちゃん抱くの上手いね」

 「本当?」

 クラウドは存外嬉しそうに笑みを見せ、ミシェルを見た。もういつ生んでもいいよといわんばかりのクラウドのドヤ顔に、ミシェルはそっと目を反らした。

 セルゲイが皆のカップに三杯目の紅茶を注ぎ入れるところで、アズラエルが「俺とルナはもういい」と言った。

 

 「そういやアズ、そろそろ出かけるんだろ?」

 クラウドが赤ちゃんをエレナに返し、腕時計を見た。

 「え? どこに?」

 皆が声を揃えて言った。その声の中には、ルナの声も入っていた。

 「ああ。時間だな、行くぞルゥ」

 「どこに!?」

 今度の絶叫はルナだけである。アズラエルはしれっと言った。

 「出かけんだよ。旅行」

 「聞いてない!」子うさぎは絶叫した。「聞いてないよ!?」

 叫んだところでうさぎは襟首を引っ掴まれて捕獲され、強引に連行されるだけである。

 

 「おいてめえアズラエル! ルナだけ置いていきやがれ!」

 俺、ルナと会うの久しぶりなんだぞ! とトラの遠吠えが聞こえたが、ライオンは無視。

 「じゃァなエレナ。また来る」

 「う、うん……じゃあまたね」

 エレナはぽかんとしたまま手を振った。エレナだけではなく、ミシェルもエドワードたちも、カレンもぽかんと口を開けたままだ。アズラエルの行動の速さには慣れたつもりでいたが、それにしても突然すぎる。車三台で来たので、帰りはだいじょうぶだが。

 

 「あっ! アズラエル! またルナのサンダル忘れていくなよ!」

 あわててカレンが玄関まで走ったが、今度は、ルナのサンダルはちゃんと持ち去られていた。

 

 

 

 「アズはいっつもいきなりすぎるよ!」

 ルナは助手席でぷんすか怒りながら聞いた。

 「どこ行くの!!」

 「まえ言ったろ。K19だ」

 「K19!?」

 ルナは怒ったままだったので無意味に叫んだ。アズラエルはそんなルナの怒りなど意にも介さず、鼻歌交じりに車を走らせる。

 「海が見れるぞ」

 「海……」

 海の一言でルナの怒りは静まった。このあいだの旅行の時から車内に入れていたパンフレットを持ち出して、開く。

 「ほんとだ……うみのそばだ……」

 K19は海に隣接した区画だった。水族館も海水浴場もある! と輝きだしたルナの顔をちらりと見遣り、アズラエルは言った。

 「今夜はK08に泊まる」

 「K08? リゾート地?」

 「そう。湖が見れるレイクホテル」

 「みずうみ!」

 この子うさぎが、水辺が大好きだということはライオンは把握済みだ。ライオンは子うさぎから感謝のキスをほっぺたに受け、さっきのルーイやグレンに負けずとも劣らないデレ顔になったのであった。