さて。

 湖畔のホテルで、ルナは食べたことがないディナーを――リリザで獲れるキラキラした魚がメインのコースを食べた。綺麗に焦げ目がついた七色の鱗はサクサクして香ばしく、ルナはほっぺたが落ちそうだと思った。そして値段を聞かない方がいいワインを飲み、豪華絢爛なデザートまで食したルナはすっかり酔っぱらって目がポヤン。ライオンのエサとしては上出来の仕上がりだった。

スイート・ルームは三部屋もあり、寝室は頭上に満天の星空と、湖畔が見える。薔薇の花びらが浮いた乳白色の湯があふれんばかりの浴槽でイチャつき――もとい、イチャつかれ、そのままベッドに運ばれて、うさぎは頭からライオンに食われたのであった。

 

 「ふぎ……」

 そうして気づいたら、陽は高く昇っていた。昼近い時刻で、アズラエルは行方知れずだ。ルナはぼうっとする頭でぺとぺと浴室までいき、シャワーを浴びた。浴室から出るとバスローブ姿のアズラエルがいて、朝食を乗せたワゴンを動かしていた。

 「ルゥ、生ジュースがあるぞ。三種類。それともコーヒーにするか?」

 ルナはワゴンの上のオレンジ色を見て、「オレンジジュース」と言いかけたが、「ぜんぶ、ちょっとずつ飲んでみたい」と言い直した。

 アズラエルがジュースをピッチャーから注いだり、サラダを取り分けたりするのをボケッと眺めていた。ほんのり温かいクロワッサンとロールパン。オムレツとベーコン、ルナが見たことのない花びらみたいな赤いフルーツと、キウイ、マンゴー。

 半分寝ているアタマで、ぽけーとしながら果物をつついていると、アズラエルがルナの頭を撫でてきた。頬も。

 「……なんか、幸せだな」

 とアズラエルが言ったので、ルナは驚いてフォークの先からマンゴーを落としてしまった。ルナは口をぽかっと開けた後、無意識に言っていた。

 「アズが幸せだと、あたしもしあわせ」

 ルナはアズラエルからふたたび、キスの雨を受けたのだった。

 

 バカップルがホテルをチェックアウトしたのは昼近く。ベッドで一回戦とまではいかなかったが、アズラエルがルナとイチャつきたがったためだ。チェック・アウトの時間がなければ、アズラエルはずっとルナを膝に乗っけてキス責めにしていたに違いない。

アズラエルは、車の中に入っても、ルナと離れているのが嫌らしく、ひっきりなしに髪や手に触れてくる。さすがに慣れてきたルナではあったが、アズラエルは一旦火がつくと車中でもどこでも構わずに押し倒してくるから、危険だ。

「運転中だよアズ!」

ルナはぺしっとアズラエルの手の甲を叩く。それでメゲるライオンなら、どれだけ楽だったか。ルナは、アズラエルの気を反らさせるためにお喋りをしようと、何の気なしに言った。

 

 「アズは、赤ちゃんとか欲しくないの?」

 アズラエルは驚いた顔でルナを見、「プロポーズかそれ」と言った。

 プロポーズ。

 そんなつもりで言ったわけではない。ルナはあわてて訂正しようとした。真っ赤になって。だがルナが何か言う前に、アズラエルが面白くない顔でぼやいた。

 「まだガキはいらねえ。おまえとイチャつきてえし」

 

 昨日エレナのところで、グレンとセルゲイは、「ルナの子供が欲しい」だの「俺の子供を生んでくれ」だのうるさかった。アズラエルはエレナの赤ちゃんを一度は抱いたが、おっかなびっくりで、すぐエレナの腕に戻した。「ガキは苦手だ」アズラエルははっきりそう言った。

 「ガキは苦手だ」

 アズラエルは再び言った。

 「うるせえし、すぐ泣くし、わがままだしな。……赤ん坊も正直苦手だ。潰しちまいそうで、ヒヤヒヤする」

 ルナは、昨日、一番エレナから離れていて、なるべくなら近寄りたくない、という顔をしていたアズラエルを思い出す。

 

 「アズは、イクメンになりそうだと思ったんだけどなあ……」

 ルナのぼやきに、アズラエルはやっと気づいて取り繕うように言ったが、失敗した。

 「おまえの子なら別かも知れねえが――ガキが苦手なのは昔からだ。面倒だろうが、その、いろいろと、」

 「いいもん。アズのこどもなんか産まないから」

 拗ねてみせたルナに、アズラエルが困った顔をする。

 「……おまえのガキなら、可愛がれる自信ある」

 「だってアズ、こどもきらいなんでしょ」

 ルナの目が据わってきたので、アズラエルは慌てて話題を変えた。

 「ルゥ。機嫌治せよ――ほら、観覧車見えて来たぞ」

 「え?」

 海ではなく? 

 言われてルナは、窓の外を見ると、ほんとうに観覧車が視界に入ってきた。

 「遊園地もあるの?」

 「ああ。……今は、やってねえみてえだけど」

 「やってない?」

 いつの間にかK19区画に入っていたようだ。道幅は広かったが、車どおりは少なかった。歩道をあるく人影もない。観覧車が瞬く間に近づいてきて、道路の側面は遊園地の敷地になった。アズラエルの言うとおり、今は運営していないのか、ジェットコースターも観覧車も、遊具はまるで動いていない。

 

 「ほら、海だ」

 ルナが観覧車のほうに気を取られている間に、潮の生ぬるい空気がルナの肌を擽っていき、前方に青が見えた。広い道の前方は、広場で、海がみえる突き当たりだった。

 

 ――あれ?

 

 ルナは、目を疑った。

 

(この景色、どこかで見たことがある)

 

 車が広場へ躍り出る。広場の右手は橋を越えて道路になっていて、街がある。街の隣にすぐ遊園地があるという、不思議な光景だった。石畳の広場の向こうは水平線が見える海。アズラエルはモダンな造りのレールで仕切られた海との境界近くで、車を停めた。

 ルナが車から降りると、潮の匂いが鼻を衝いた。海風に煽られて、麦わら帽子が吹き飛びそうだった。

 

 この景色、見たことがある。

 どこで? いつ?

 

 ……思い出せない。

 

ルナは記憶を探ろうと、あちこちを眺めた。運営していない遊園地、その隣の広い道路――あそこは、霧がかかって通れなかったのでは? いや違う。今、そこを通ってここへ来たではないか。いつ? 通れないと思ったのは、霧に閉ざされていたのは、いつだ?

 

思い、出せない。

 

ウミツバメのなく声に、ルナは導かれるように見た――目前に立つ、教会を。

 教会の隣に、螺旋状につらなる階段が奥に見える、潮風に錆びた鉄製の扉。螺旋上の階段は、教会後ろの灯台につながっているらしかった。

 

 「アズ――あたし、ここ、」

 「なんとなくだけどな、おまえをここに連れてきたかったんだよ」

 

 アズラエルも、外に出ていた。「いい風だ」とガードレールに肘をつき、懐かしそうに目を細めて水平線の彼方を見た。

 

 アズラエルも?

 アズラエルも懐かしいと感じているのだろうか。ルナもそうだ。

 

 ルナはここに、来たことがある。

 

 ここに。

 

 ――いつ?

 

「ア、  アズ」

 「ン?」

 「……あそこはなんだろう。あの、教会みたいなところ、」

 「なんだろうな」

 ルナは、アズラエルと一緒に教会のほうへ歩いて行った。灯台へ続く鉄錆びた扉――見たことがある、間違いない。

 「ルゥ、ここ、K19の区役所だってよ」

 アズラエルが観音開きの扉の横にある表札を見て、言った。

 「区役所……」

 区役所は、今は閉じられているようだった。鍵がかかっているし、周囲に人の気配はない。

 「ルゥ?」

 「あの、あのねアズ!」

 「なんだ?」

 「あの橋の向こう、行ってみたいの!」

 「向こう? 向こうの街か?」

 「う、うん……」

 アズラエルは橋の向こうを眺め、その寂れ加減に顔をしかめながらも、「カフェくらいあるよな」と呟いた。

 

 

 「うん、あのね、そこの通りを曲がってね、」

 「……おいおい、どこに向かってんだ」

 街に入り、カフェでコーヒーでも飲もうと思っていたアズラエルだったが、ルナには行きたい場所があるようで、せっかく見えたカフェは素通りした。ルナは奇妙な行動ばかりをとった。いきなりホテルの前で車を停めろと言い、車を降りてホテルに向かい――「入れる!」と言って戻ってきた。あたりまえだ。街に人気はまるでないが、ホテルは運営している。フロントマンも数人いた。

 「おまえ、ここ来たことあるのか」

 自分と出会う前に、ミシェルたちと来たことがあるのだろうか。だが、ここは観光地とは思えないほどの寂れ具合で、ルナたちがわざわざ来るような場所には見えなかった。それに、レオナのマンションで遠目に海を見たとき、「海があるんだ!」と感激していたルナである。そのときまで、宇宙船内に海があることすら知らなかったわけだ。この区画に来るのが初めてであろうことは明白だ。