九十話 こんにちは、ピエト



 

「離しやがれ! コンチクショウ! 俺様の名前を知らねえってのか!」

 ジタバタ暴れる子供に、アズラエルは容赦なく「知らねえよ」と返した。

「知らねえってンなら教えてやる! 俺ァピエトさまだ! どんな悪党も怯えて逃げる、正義の味方、ピエト様だ!」

「……そういう幼児番組でもやってンのか……」

アズラエルは相手にしなかった。子どもの襟首を引っ掴んだまま、区役所――教会の形をした建物へ歩いていく。ルナも慌てて後を追った。

 

アズラエルが区役所に入ろうとしたところで、タケルが扉を開けて飛び出してきた。アズラエルと、その手がつまみ上げている子どもの姿を視界にとらえる。

「ピエト君!」

「うっげ! タケルの野郎だ!」

子ども――ピエトは今までにない勢いで暴れだし、アズラエルも襟首をつかんでいるだけでは支えきれなくなり、ついに手を離したが。

 

「アズラエルさん! すいません、捕まえてください!」

タケルの悲鳴のような声に、アズラエルはすかさず踵を返してピエトを追い、あっという間にピエトのズボンのベルトを、長い腕でひょいと持ち上げた。

「ちくしょう! この悪党面が!!」

ピエトは暴言を吐いたがアズラエルの頑丈な腕が簡単に緩むわけもない。ルナだって、あれに捕まえられたらもう抜け出せないのだ。たかだか十歳くらいの子供が逃げ出せるわけはなかった。

 

「アズラエルさん……助かりました、ありがとうございます」

ぜいぜいと息を切らしたタケルが、ヘロヘロという感じでこちらまでやってきた。タケルはさっきからずいぶんと忙しなかったが、ピエトを探していたのか。やっと地面に下ろされたピエトは、アズラエルとタケル、両方から同時にゲンコツを食らった。

「イッデエ!!」

「ピエト君、学校はどうしたんです!」

「このクソガキが! まずはごめんなさいだろ!」

アズラエルとタケルが同時に怒鳴ったので、ルナはぴーん! とうさ耳が立ってしまった。ルナはびっくりした。あの優しそうなタケルが、子どもにゲンコツを食らわせるとは思わなかったし、アズラエルのゲンコツは大変に痛そうだったからだ。

 

「ピエト君、何をしたんです」

タケルも、ピエトが、ルナとアズラエルに悪さをしたであろうことに気づいた。怖い顔でピエトを睨んだが、この子どもはよほどふてぶてしいのか、知らぬ顔で口笛を吹いている。

「ルナのバッグ、掠め取りやがったんだよ。コイツ、どこのガキだ」

「ええっ!? 本当ですか?」

タケルはふたたびピエトを怒鳴った。

「ピエト君、もう、スリはしないって約束だったでしょう!」

「バカ言えよ。スリの腕、鈍ったらどうすんだよ」

「ピエト君」

タケルは、ピエトと目線をあわせるようにしゃがみ込み、ピエトの目をしっかり見て言った。

「ピエト君、この宇宙船は、――いや、もう、スリも盗みもダメだと言った筈だ。人の物を盗んだりするのは、いけないことだ。それにもう、なにかを盗んだりしなくても、生活していける環境にあるんだから。今度何かを盗んだら、宇宙船を降ろされてしまうって、私は言ったよね?」

急にピエトの顔から、表情がなくなったのをルナも見た。ずいぶん、子供らしくない顔をする。アズラエルも、ほんのわずか、眉間に皺を寄せた。

 

「……悪さしたら、元の場所に帰してくれるんだろ」

「ピエト君、」

「だったらさっさと帰せよ。帰りてえんだよ俺は」

ピエトは両の拳を震わせて叫んだ。

「つまんねえよこんなとこ! もうピピもいねえし! この宇宙船に乗ったらピピのこと助けてくれるって言ったくせに、大嘘じゃねえか! ピピは死んじまったし、俺だってすぐに死ぬんだろ! だったら俺は、仲間がいる家で死にてえよ!」

タケルは言葉を失い、すこし悲しい顔をしたが、ピエトの両肩をしっかりと押さえて首を振った。

「ピエト君は治る。ちゃんとこの宇宙船で治療をすれば、必ず治る。だから、宇宙船を降りちゃいけない」

それを聞いたとたんにピエトの顔が大きくゆがんだ。こどもの大きな両目から、ぼたぼたと涙が零れる。

「大嘘つきだ……! てめえなんか!」

「ピエト君!」

 

今度こそ、ピエトはタケルの両手を振り払って逃げた。だが、数歩も行かないところで立ち止まり、大きく咳き込んだ。

「おい……」

風邪にしてはあまりに急な咳き込みようと、喉が切れたようなおかしな音に、アズラエルも変だと気付いた。ピエトは咳が止まらぬまま蹲り、急に糸が切れたようにばたりと倒れた。

「大変だ!」ルナが、大慌てで駆け寄った。だがタケルのほうが早かった。ルナが手を出すまえにタケルが抱き起こす。ピエトは、青黒い顔をして、ぐったりとしている。

タケルが携帯電話で救急車を呼ぶ。タケルの処置は冷静であったし、この事態に慣れているようでもあった。

「K19区、区役所前です。――はい、一台お願いします。私はタケル――ピエト君の担当役員です。そうです、アバド病の――はい、ピエト君です」

 

――アバド病?

 

ルナがアズラエルを見上げると、アズラエルは苦い顔をしたままぽつりと、「鉱山病の一種だ」と言った。

 

 

 

結局、ルナたちは、タケルについて病院まで来てしまった。ピエトがルナのバッグを盗んだことは確かで、ルナたちがそれを役所へ届け出ると、確実にピエトはL85へ帰されてしまう。だが、タケルはどうしてもそれをしたくないようで、何度もルナたちに頭を下げ、「どうかお時間をいただけませんか、お話したいことがあります」と頼むので、アズラエルは仕方なく、ルナは、ピエトという少年の病気が気になって――ついてきてしまったのだった。

ピエトが運ばれたのは中央区の大病院ではなく、K19内にある小児科だった。中央区程とは言わぬまでも大きな病院で、入院施設は整っている。ピエトと一緒に救急車に乗り込んだタケルを追い、アズラエルの乗用車もその病院まで直行した。ピエトが治療室に入ったのを見届けたタケルは、担当医と二三話した後、ルナたちが待っているロビーへ来たのだった。

一階には、カフェテラスもある。タケルは、カフェでルナとアズラエルに飲み物を勧めながら、何度もテーブル向かいで頭を下げた。

 

「本当に申し訳ありません」

何十回となく謝られて、ついにアズラエルは、「もう、いいよ」と言わざるを得なかった。とりあえずルナは怪我もしていないし、バッグは戻ってきている。アズラエルはピエトにはああいったが、ほんとうに役所に突き出す気はなかった。

 

「だがよ。あの調子じゃ、また同じこと繰り返すぜ」

アズラエルとルナが許しても、きっと、あのピエトという少年は同じことをするだろう。さっきのピエトの台詞は、二人も聞いていた。母星でスリの常習犯だったのは確かだろうが、彼は、L85に戻りたくて――わざと、ルナのバッグを盗んだのだ。

「……まさに、その通りです」

タケルもまた、途方に暮れた顔をした。「するでしょうね。彼は、L85に戻りたがっていますから」

「余計なこととは思うがよ。――帰りてえって言うんなら、帰してやりゃ、いいんじゃねえか」

「アズラエルさんも、そう思いますか」

タケルは、疲れた顔で苦笑した。

「でも、ピエト君は、L85に帰れば、確実に一年も持たずに死にます。……しかしこの宇宙船で治療を続ければ、ちゃんと治るんです。アバド病は、治らない病気ではありませんから」

アズラエルは、甘いとしかめ面をして、コーヒーを啜った。ブラックでと言ったら、たっぷり砂糖の入ったブラックコーヒーが出てきたのだ。アズラエルは仕方なしにそれを飲んだ。ルナのめのまえには、ホット・チョコレートが置かれている。子どもばかりの地区だからだろうか、メニューは甘い飲料で埋め尽くされていた。

 

「アバド病で、L85ってことはよ、」

アズラエルは顎を擦った。

「あいつ、ラグバダ族か」