フライヤは、L20に来た三日後から、すぐに陸軍の庶務部に配置された。庶務部は、傭兵上がりでも入れる軍の部署で、フライヤの階級は上等兵。とはいっても、フライヤのすることは一般の会社の事務職と変わりはなかった。コピーをしたり、書類を作ったり、あちこちの部署におつかいに行って書類を届けてくることくらい。

 庶務部は、傭兵上がりや、昇進できなかったあぶれ者が落とされてくる場所で、仕事は上記のような雑務ばかり。所属している人間も、いいかげんで怠惰な人間が多かった。

フライヤが庶務部に入った瞬間見た光景は、菓子を貪りながら談笑している女たちの姿で、それはなんと就業が終了するまで続いた。フライヤはとくに自己紹介をさせられることもなく、案内されたデスクに着いた。仕事さえ与えられなかったので、さすがに庶務部の管理官の席までいって、「あの……何か仕事は」と聞いたら、やっとコピーすべき書類を与えられた。フライヤのその日の仕事は、コピーのみだった。

庶務部は恒常的に暇を持て余しているらしい。みんな毎日、菓子を持ってきては、食べて談笑していた。まじめに仕事がないか聞くのはフライヤくらいのもので、あとは、仕事があるときに、くたびれた爺さん管理官が、仕事を皆に回している、そんな具合だった。

何日か経てば、自然とフライヤばかりが仕事をしている状態になっていた。だが、だれもフライヤに関心を払わない。フライヤは、談笑に加わりもしなかったので、ひと月たっても、管理官以外には名前も覚えてもらえなかった。

パソコンを、私用で使っても何も言われないので、フライヤは、仕事がないときは相変わらずL03の情報を仕入れるのに一生懸命だった。一生けんめいというより、半ば自棄だ。やることがないから、そうしているにすぎない。アダム・ファミリーの仕事のほうが、よほどやりがいがあって楽しかった。

 

フライヤが庶務部に配置されてからというもの、話すのは管理官とだけ。それも「仕事はないですか」くらいなもので、昼食も、フライヤは作ったお弁当を自分のデスクで、ひとりで食べた。家に帰っても、エルドリウスの帰りは遅く、夕食を一緒に取れるのも、ひとつきのうち、数回。相変わらずフライヤは、エルドリウスの前で緊張が解けることはなかったが、エルドリウス以外にいないのだ。話し相手が。

そのエルドリウスですら、今はいない。

さすがにフライヤは、寂しいと感じた。このままでは、喋り方を忘れてしまいそうだ。

大きな広い屋敷に帰っても、たったひとり。ひとりで朝食を食べ、昼食を食べ、夕食を食べる。やがて作るのも面倒になって、パンを買ってすませる生活になってきていた。

 

すくなくとも、今までの生活の中では、家に帰れば母がいた。夕食は、ひとりではなく、母親と食べていた。家に帰ってもだれもいない――職場でも、プライベートでも、話す相手がいない――こんな寂しさを、感じたことはなかった。

オリーヴや、母親に電話をしようと思ったことも何度もあったが、「帰りたい」と言ってしまいそうな気がして、結局電話できなかった。

なぜ結婚したのか――結婚した意味さえはかりかねている今、エルドリウスと別れて、L18に戻るということも何度となく考えたが、エルドリウスが、母親の足の手術の面倒を見てくれているのも事実だ。母親とはL20に来てから電話で話したが、エルドリウスにひどく感謝していて、この結婚を僥倖だと感じているのは確かだった。あの母親の喜びようを見て、別れるとは言いづらい。

エルドリウスは、寂しいなら、寂しいと言ってくれとフライヤに言ったが、フライヤが簡単にエルドリウスに寂しいと言えるほど、まだ心の距離は縮まっていない。いっしょに食事をするだけで緊張するのに。

それでも、そんなエルドリウスに「寂しい」と言ってしまいそうなくらい、フライヤは孤独だった。

 

(結婚って……こんなものなのかなあ)

帰りたい。L18に。

オリーヴと、気兼ねなく話したい。

(今度の週末、オリーヴに会いに行こうかな)

オリーヴも、任務でいないときがよくある。傭兵家業は、休みは不定期だが、フライヤの休日は週末土日のみだ。フライヤは週末も苦痛だった。この広い家に、たったひとり残されることが――途方もなく孤独感を倍増させる。あんな退屈な職場でも、ひとがいるところにいたほうが、ずっといい。そんなこと、少し前までは考えたこともなかったのに。

 

フライヤは、パソコンを立ち上げた。よほど忙しいか、機器に触れない場所にいるのだろう。エルドリウスに昨夜送ったメールは、まだ返信が来ていない。オリーヴは長期任務中なのだろう、やはりメールはなかった。自分が、だれかからのメールを待つようになるなんて。

母親には、あまりメールをしていない。母親のメールは、エルドリウスとの新婚生活のことばかり聞いてくるからだ。まさか言えない。一緒に暮らし始めて、顔をあわせたのが数回だなんて。母親が望むような、仲のいい新婚生活のメールなんて、できるわけがなかった。

 

フライヤは喉が詰まって、クロック・ムッシュを半分、残した。いつも美味しいはずの紅茶の味ですら、どこか味気ない。

のろのろとフライヤは立ちあがり、軍へ出勤するために、バッグを肩からかけて、玄関を出た。

 

 

 

今日も、いつもと変わり映えのしない一日が過ぎる筈だった。

フライヤの仕事は、午前中はコピー以外になかったので、フライヤはめずらしくパソコンを立ち上げることもせずぼうっと窓の外を眺めた。昼食は、気分転換に外で取ろうと思い、近くのパン屋で買ったパンを、軍の敷地内の公園で食べ、庶務部に戻ると、めずらしく人が中央に集まって、ざわついていた。

 

「あ、来た」

だれかが、フライヤの顔を見て言った。

「べつに、もう騒ぐほどのことでもないじゃん。この子に行かせればいいし、」

「ええ? 大丈夫かなあ、ちょっとかわいそうじゃない?」

「じゃあアンタ行けば」

いつも固まって菓子を食っている、同僚なのか上司なのかすら分からない女性たちが、フライヤに向かって両手を合わせた。

「えーっと、えーっと、誰だっけ……」

「フライヤです」

「フライヤさん! お願いあるんだけど、おつかい頼まれてくれない?」

「はい……」

フライヤが返事をすると、管理官が即座に封筒を渡してきた。

 

フライヤは、管理官に渡された地図を見ながら、左折したり右折したりして、ようやく、地下四階までいけるエレベーターにたどり着いた。陸軍本部はとても広い。管理官は、地下四階にある心理作戦部にたどり着くまで十五分はかかると言った。そのとおりだった。この地図がなければ、フライヤは果たして、もう一度庶務部にたどり着けるかどうか。

 

フライヤに課せられた任務は、心理作戦部の部署へ行って、今月分の経費を受け取り、渡された封筒に入れて経理部まで届けることだった。――任務といってもおおげさではない。ひとつきに一回のこの「任務」は、だれもが二の足を踏むほどの過酷な任務だ。

 

とにかく、心理作戦部は怖かった。

 

入ったら、生きて帰ってこれなさそうな、恐怖の部署だ。異臭がする最下層の部署で、心理作戦部の隊員も怖いが隊長のアイリーンはもっと怖い。その、恐怖の根源であるアイリーンに、「今月の経費を提出してください」と言いに行かねばならない。アイリーンが不機嫌なときに鉢合わせたら、地獄だ。いったんもどって、後日来訪せねば、どんな目に遭うか分からない。本来なら、経費書類をもらいにいくのは経理部の仕事だが、経理部はそんなところへ行きたくない。だから、税金泥棒とどの部署も小馬鹿にしている庶務部に、その役割が回ってくるのだ。普段働いていないのだから、少しくらい過酷な任務があってもいいだろうと。

 

だれもフライヤに、心理作戦部とアイリーンの怖さは教えなかった。行きたくないといいだしたら困るし、彼女には、これからも行かせるつもりだ。こういう大変な仕事は下っ端の役割であると開き直っていた。庶務部の連中は、はじめて今日フライヤの名前を覚えたし、フライヤがいたことに感謝した。

 

管理官は、心理作戦部から経費書類を受け取って経理部に届けたら、今日はもう直帰してもいいと言ったので、フライヤの思考回路は比較的呑気だった。おつかいはたまに行かされることはあるが、デスクで何もせず座り続けているよりよほどいい。

フライヤは呑気だった。――エレベーターが、地下四階にたどり着くまでは。