エレベーターのボタンが地下四階で点滅し、ドアが開いた。その瞬間にすうっとエレベーター内に入ってきた冷気に、フライヤは息を詰めた。冷気と、異臭。その異臭が血の臭いであることは、フライヤには分からなかった。

めのまえには真っ暗な廊下が伸びている。天井の、等間隔にあるランプは、点滅していて、無駄に怖さを醸し出している。音のないサイレンの様。フライヤは恐る恐る一歩、踏み出した。後ろでエレベーターの閉まる音にビクつき、ひとのうめき声みたいなものが奥から聞こえてきて、フライヤはひいっと喉をひきつらせた。

(なに、ここ)

どこのホラー・スポットだろう。

フライヤはやっと、皆がここへ来たがらない訳が分かった。だが、こんなのは序の口だと、庶務部の連中は口を揃えていったはずだ。一番の恐怖は、心理作戦部の隊長、アイリーンなのだから。

 

フライヤは、後ろを見ないようにして、小走りで廊下を駆けた。長い廊下の先には開けた場所があって、六方向に廊下が伸びている。そこまで来ると何人かひとがいて、電球も明るい。フライヤはほっと息を吐いた。廊下ごとに掲げられている札を見、隊長室を探した。ひとがいてほっとしたことは確かだが、心理作戦部の人間は、だれもが雰囲気が怖すぎて、「隊長室はどこですか」などと、フライヤが気軽に聞けそうな人間はひとりとして見当たらなかった。

廊下の一つに、「尋問部入口」というのを見つけ、奥から、さっき聞いた化け物みたいな呻き声が聞こえてきたので、フライヤは慌ててそこを過ぎた。

やっと隊長室を見つけた。重厚な鉄製の扉は、つめたくフライヤを拒絶している。

怖々、ノックする。「入れ」と、フライヤが声を聞いただけで固まるような、冷ややかなしゃがれ声が聞こえてきた。怯えた声で、「失礼、します……」と中に入り、おそらく声の主であろう人物を見た途端に、フライヤは悲鳴をあげるところだった。

 

この部屋にはひとりしかいなかったのだから、彼女が声の主だ――彼女。L20には、性別を男性にかえている女性が数多くいる。だから女性の名でも、容姿は男性というのは、めずらしくもない。彼女もきっと、元は女性だったのだろう。

だが、椅子に座っているだけで、だれもが平伏してしまいそうな威圧感は拭えない。真っ黒な眼帯を右目に着け、左目はぎょろりと大きく血走っている。右足は、明らかに義足だった。凝ったデザインの、鈍く光る特殊な材質をつかった義足。背は随分高いはずだ。肩幅も広く、女の要素は名前だけ。

そして――その、人を石化せんばかりの、メデューサの目。

 

「何の用だ! 僕は忙しい! 用件を言え!!」

「ひいっ!!」

フライヤは、我慢していた悲鳴をついに上げた。その悲鳴に相手が苛立ったのは確かだ。ガタン! と椅子を蹴飛ばさんばかりの勢いで――アイリーンが立った。蹴飛ばさなかったのは、机も椅子も、大きく頑丈だったからだ。それでも、あちこちに傷がついている。この隊長が、傷を負わせているに違いなかった。立ちあがった彼女は圧倒的な体躯だ。黒い悪魔がそこに、いるようだった。

 

「何の用件だ! 庶務部か! 経理書類ならまだできていない! ――ン?」

センテンス区切るごとにこちらへ近づいてくるものだから、フライヤはついに腰を抜かした。封筒を抱えて、恐ろしい相手を見上げる。失禁しなかったのが不思議なくらいだった。

「――ン?」

アイリーンが、鬼の形相を真顔にして――そうすると、恐ろしさはわずかに減った――フライヤの顔を覗き込んだ。

「貴様は……」

知りあいだっただろうか。知り合いなわけはない。フライヤにはこんな恐ろしげな知りあいはいない。

アイリーンは突如くるりと背を向け、席へ戻った。椅子へ座ろうとしたが、何を動揺しているのか、回転する高級座椅子の手すり部分にお尻をひっかけた。椅子をガタガタ言わせてなんとか座れたが、身体は壁のほうを向き、やがて咳払いをして――、

 

「きっ……、」

さっきの嗄れ声より、五オクターブは高い声を出した。

「貴様の……っ、いや君のっ、名前は……っ?」

 

チラチラとフライヤのほうを見る。壁を向いたままの体勢で。フライヤはまだ、恐怖から抜け出ていず、アイリーンの挙動不審に気付いていない。

「フっ、フライヤ・G・メルフェスカ上等兵ですっ!」

こちらも、アイリーンに負けずとも劣らずの、涙交じりの裏返り声で敬礼した。今の姓はウィルキンソンであることなどすっかり忘れていた。

 

「フライヤ――メルフェスカ――」

アイリーンは、味わうように、フライヤの名を口にした。何度も何度も、復唱しながら。それすら恐怖である。フライヤは泣きそうだった。こんな怖い人に名前を憶えられるなんて、なんて不運なんだろう……!

 

「僕は――その、ぼ、僕は――アイリーン・D・オデット――だ」

「ひ、ひゃいっ! 存じ上げております! 心理作戦部のアイリーン隊長っ!」

「え、えっと……君は――き、君は――フライヤは――フライヤ“さん”は――その、そそそそその、何の用で――」

「ひゃいっ! 経理書類をいただきに参りましたっ!」

「え? あ、ああ――け、経理書類ね――できてる――」

机の引き出しに手をやったアイリーンだが、ふと手を止め、迷うように押したり引いたりし、それから、ぼそりと言った。

「あの――」

「ひゃい! 何でありましょうか!?」

フライヤの緊張は振り切れていた。だがそのために、アイリーンの緊張も振りきれていたことなど、分かりはしない。分かるわけがない、想像だにし得なかった。

「あの――すまないが、できてないので、……もう一度、明日、取りに来てくれないかな?」

 

フライヤは絶望した。また明日ここへ、来なければならないのか? また? こんな怖い思いをしなくては?

だが庶務部の先輩方に念を押されていた。アイリーンが「ない!」といったら何も言わず引き下がれと。決して、決して、一度でも、催促などしてはならないと。そんなことをしたら、とんでもない仕置きが待っている。フライヤは仕置きの内容は聞かされてはいなかったが、聞いていたら、エルドリウスに泣きついてでも庶務部をやめていたかもしれない。

――尋問部屋に、書類を取りに行かせられるのだ。尋問の、真っ最中に。一生のトラウマにでもなりそうな光景が繰り広げられている場所に。

実際、これで庶務部すらやめていった人間が何人もいる。

 

「ひゃいっ! その通りにいたしますっ!」

フライヤは、小さな背をいっぱいに伸ばして敬礼した。「し、し、し、しししつれいいたしま、すっ!!」噛みそうになりながら、くるりと回転し、ギクシャクと行進した。今にもドアを開けて出んとするところで、

「あ、明日! 待っているからな! 必ず来い! いや――来て、ください……」

フライヤは呼び止められた恐怖で、アイリーンの敬語になど気づかない。必ず来い! が脳内に響き、「ひゃい! 申し訳ありません!」と涙目で謝り、ドアを開けて、外へ出た。

 

フライヤはアイリーンのうっとりとした表情など、目にも入っていなかった。

アイリーンが、胸を押さえて、「……素敵だ」と悩ましげなため息を吐いていたことも。

 

アイリーンは、ちゃんとできている経理書類を、今までにないほど丁重に取り出すと、不備がないか調べ始めた。いちおう明記しておく。アイリーンは普段はそんなことはしない。

 

フライヤはしっかりとドアを閉めた後、一目散に駆けだした。半泣きで、駆け出した。エレベーターのボタンをガチャガチャやり、やっと開いたドアに滑り込んで、また無駄に何度も何度も一階のボタンを押した。

エレベーターがぐんと上がり、一階に着き、ドアが開いて――陽の光を見た瞬間、地獄からの生還を自覚した。フライヤはエレベーターを出、へなへなとその場に座り込み、「だいじょうぶ?」と親切な誰かに声を掛けられるまでしゃがみ込んでいたのだった。