『……それは、経理部の仕事なんだろう? なんで君が』

 

 電話向こうのエルドリウスの声が、急に温度が下がったのをフライヤは感じた。エルドリウスは、面と向かって話すと、いつも微笑んでいるうえ優しいタレ目なので、怒っているとか、苛立っているとか、不機嫌な感じは分かりにくいのだが、こうして声だけを聞くと、不思議と彼の感情がクリアに浮かび上がるように、フライヤには思えた。

 エルドリウスは怒っている。間違いなく。

 だがそれは、フライヤに対してではない。庶務部の怠慢と、経理部の怠慢にだ。

 

 「あ、あの――でもあの、私は庶務部でも新入りで、下っ端ですし……、だから、仕方なかったのだと……」

 『仕方なくなんてない。元をただせば、経理部が心理作戦部に行きたくないから庶務部に行かせている、それだけの事実だろう。本来ならそれは経理部の仕事だ。いくら庶務部が暇を持て余しているからといって、それはただの怠慢だ』

 

 フライヤは逃げるように自宅に帰ってから、もうたまらなくなって――九割がた、アイリーンと心理作戦部への恐怖のために――オリーヴに電話した。だがオリーヴは任務中なのか、出てはくれなかった。ダメもとでエルドリウスに電話したら、妙にすんなりと繋がってしまったのだった。

フライヤは話した。今日あった出来事を。エルドリウスが、今電話に出ていても大丈夫なのかとか、聞くことも忘れて。とにかく、全部吐きだしてしまわねば、恐怖でどうにかなってしまいそうだった。フライヤは、途中から泣きながら話していた。エルドリウスは黙って聞いてくれていた。何も言わずに。

 そうしてやっと、フライヤの話が終わったあたりに、エルドリウスが言ったのだ。それは経理部の仕事だろうと。

 

 すっかり吐き出したフライヤは、やっと冷静さが戻ってきていた。フライヤは別に、心理作戦部におつかいに行かされたことに対して愚痴りたいのではなかった。ただ単に、アイリーンと心理作戦部という場所が怖すぎて、だれかに言わずにはいられなかっただけだ。おつかいに行かされたのは、フライヤは新入りだし、雑務をやるのは当然だと思っている。それに、ろくに仕事もない部署なので、かえっておつかいという仕事があるだけマシなのだ。

 それをやっとの思いでエルドリウスに説明し、「……混乱してて……愚痴ったりなんかして、すみません……」といったら、エルドリウスの盛大なためいきが返ってきた。呆れられて当然だと、フライヤは思った。

手を伸ばし、テーブルの上のティッシュをつかんで鼻をかみながら、「本当にすみません――いきなり――お、お時間とかだいじょうぶだった、ですか?」と、自分でも今さらと思いつつ、聞いた。

 それに返ってきたのは、またしてもエルドリウスの大きなため息で。

 

 『……珍しく電話をしてきたと思ったら、そんな気遣いを? 庶務部のこと、初めて聞いたよ――君、ほとんど仕事場のこと、喋らなかったしねえ。私の話に相槌を打つばかりで。そんなに退屈な部署なら、言ってくれれば良かったんだ。まあ、庶務部のことに関しても、いろいろ言いたいことはあるけど――謝らなくていいんだよ。そんなことより、君、寂しくはなかったの』

 「へ? ――え?」

 『寂しくはなかったのかと聞いてるの。そんな怖い思いをしなきゃ、私に電話をしないの? まあだいたい、私に気を遣って、電話をしないのは分かっていたけどね……』

 「え、ええっと……すみ……すみま、せん……」

 『だからね、君は謝らなくていいんだよ』

 エルドリウスは、少し沈黙したあと、『君のお母さんを、L20に呼ぶかい?』と聞いてきた。今度の声は、いつもの優しい声だった。

 「え? は、母を、ですか?」

 『そう。君ひとりじゃ寂しいでしょう。私の生活はこんなだし、――L20で友人ができるまでは寂しいと思う。――ああ、なんだったら、今度の休日にオリーヴも呼んだらいい。たしか、このあいだアジトに顔を出したら、オリーヴが今週末か来週末か、君に会いに行きたいと言っていたと、エマルから聞いたよ。彼女、今はL47に行っているらしいからね。メールを送っても、連絡が取れないだろう? ほかにも、友人は遠慮なく呼んでいいんだよ。君が寂しくないように――』

 

 「あ、の……」

 フライヤは、思わず、口に出していた。

 「あの――エルドリウス……さ、……エ、エルドリウス、は、いつ、……帰って、くるの」

 

 言ってから、フライヤは(ぎゃーっ!! やってしまった!!)と頭を抱えてのたうちまわりたいのを必死で堪えた。電話を切っていたら確実に転げまわる。別の意味で涙が出てきた。案の定、エルドリウスから返事がない。絶句しているか、呆れているに違いない。さっきから、嘆息されてばかりだが、今度こそ、言葉すら失うようなことを言ってしまった。

 言ってしまった。ついに言ってしまった。呼び捨てにしてしまった。

 べつに、呼び捨てにしていいなんて、エルドリウスには言われていない。でも、夫婦なのに、いつまでもさん付けしているのはなんとなくおかしい気がしていたのだ。いや、おかしくはないかもしれない、でも、どうしても彼との距離感が縮まらないのは、さん付けしているからなのではと、フライヤなりに思っていたのだ。

 恐怖のあまり、というのはあったが、はじめて今日、エルドリウスになんの遠慮解釈もなく、ふつうに喋った気がする――せいで、頭のネジがどこか抜けてしまったのだろうか。

無礼ではなかっただろうか。無礼に決まっていますよねハイ。

 言い訳は脳内で次々に溢れたが、言葉となって出てきてくれはしなかった。

 (いや! でも! いきなりはまずかった! なんであたしって、こうなの……!)

 どうして、こう、空気が読めないんだろう。だから友達もできないし、恋人もできないんだわと、ふたたびフライヤは落ち込んだ。これだから、彼氏いない歴ン十年は……! とあらん限りの罵声を自身に浴びせたのち、エルドリウスがいつもみたいに繕ってくれる前に、「すみません! 呼び捨てにしてすみません!」と謝りかけたとき、だった。

 

 『帰る』

 「……え?」

 『今すぐ帰る』

 

 いやにきっぱりとした返事が向こうから聞こえてきて、フライヤは半泣きになるまえに固まった。

 『今すぐ帰るから。……えっと、すぐ出る宇宙船に乗っても、帰りは明日の四時ころになってしまうな。君は明日、仕事を休んでもいいが――別に行ってもいいけどね――四時前には必ず家にいるんだよ? いいね?』

 「えあ、は、はい……」

 『それで。経理書類は、ちゃんと経理部が心理作戦部へ行くように、手配してもらう。私はL19所属の軍人だし、L20での意見はあまり通らないが、そのくらいのことはできる。君は明日、心理作戦部には行かなくていいからね』

 「は、は、はい……」

 『フライヤ、』

 「はいっ……」

 『君が、私に会いたいと思ってくれたことが、私は嬉しい』

 「……!!!!!」

 『帰るからごめんね、切る』

 

 電話は、エルドリウスが先に切った。エルドリウスは電話向こうで喋りながら、バタバタガサガサと書類やらなにやらを片付ける音をさせていたので、本気で今すぐ帰るつもりだったのだろう。

 (……っ!! ……!!!)

 フライヤは、全身硬直し、謎の震えに襲われながら、汗ばんだ手でゆっくりと受話器を、定位置にもどした。

 

 (うっ、……ぎゃー!!!!!)

 

 今度は本気で絨毯の上を転げまわり、テーブルの足に額をぶつけて、「ぎゃん!」と今まで上げたこともないひどい悲鳴をあげた。フライヤの淡々として単調な人生は、いままでこういった意味で悲鳴をあげるようなことを、フライヤにもたらさなかった。絨毯の上を、顔を覆って転げまわることも。

 

 (ひええええ今すぐ死ねる! 死にたい! これはひどい!!)

 

 フライヤは恥ずかしさのあまり一度ぶつけただけではすまず、痛いのも忘れて何度か額をテーブルの足にぶつけた。

 

 (エ、エルドリウス、とか……言っちゃった……恥ずかしすぎる……!!)

 

 これではまるで、恋人同士の様ではないか――フライヤはそう思って、そういえば、自分たちは夫婦だったのだとようやく思い出した。認識すると、左手の指輪さえ、妙に生々しさを増してフライヤに迫ってくる。

 「ひい!」

 フライヤは顔を覆った。

 (だめだだめだ、やっぱりあたし、恋人とか夫婦とか、そういうのだめ。照れくさすぎる)

 広い居間を転げまわったフライヤは、やがてドアに後頭部を激突させ、止まった。

 (どうしよ……なんでこんなに、エルドリウスさんに会いたいんだろ……あたし)

 泣くほど会いたい。

 でもこの涙は、悲しいとか、つらいとか――そういうのとは、違う気がする。どちらかというと、恥ずかしくて今すぐ死にたい系の――。

 フライヤは、急に真顔に戻って、「え、えるどりうす……」とふたたびポツリとつぶやき、また絶叫しながら転げまわるという動作をしばらく繰り返したのだった。