(ああ、うん、昨日のあたしは死んだ。死んだんだ。だいじょうぶ。もういない)

 

 次の日の朝、空腹なのに胸がいっぱいで何も入らないフライヤは、紅茶だけを飲んで職場へ向かった。昨夜も、胸がいっぱいで何も食べられず、早々にベッドに入ったのはいいが、胸がキュンキュンと苦しくて、眠れなかった。オリーヴが、おっさんもかくやというニヤケ顔で、「それは恋だよフライヤ〜」とか言うのが、簡単に予想できるくらい分かり易いフライヤだったが、フライヤ自身は、まだそれを自覚すらしていない。

 ただ、昨日の自分がおかしいことは分かっていたから、職場に行くまでの間そう言い聞かせていただけである。車中でエルドリウスのことを思いだすと、いろいろ落ち着かなくなって頭を掻きむしったりなんかして、バスの中では不審者扱いされたが。

 

 やっと職場に着き、庶務部のドアを開け、返事がないのを分かっていて、「おはようございます……」と小声で呟いた瞬間だった。

 血相を変えた女性が、フライヤの胸ぐらを掴みあげてきた。

 

 「あなた、いったい何をしたのよ!!」

 

 泣きはらした顔で怒鳴りつけられ、フライヤは固まった。恋の胸キュンとか、もやもやと頭を覆っていた恥ずかしさなんかは、一瞬で消えた。

フライヤの胸ぐらを掴んでいる女性は、庶務部にいる顔ではない。一言も話したことがない同僚ばかりだが、さすがにそのくらいは分かる。――昨日の、今日だ。だとしたら彼女は経理部の女性かも知れない。周囲を見渡すと、庶務部の皆も顔を強張らせ、管理官もせっせと冷や汗を拭いていた。

 

自分が昨日、なにかしたのだろうか。たしかに逃げ帰っては来たが、アイリーンが、経理書類がないと言ったら、そのまま引き下がれと言ったのは彼らだ。だからフライヤは帰ってき、自宅に帰り際、一度経理部によって封筒を返し、明日、もう一度行ってきますと告げることは忘れなかった。その時点ではなにもなかったはずだ。不満げではあったが、経理部の受け付けも納得してくれたはずだった。血相をかえて怒鳴られるようなことを、自分はしただろうか。フライヤには心当たりがなかった。それとも、エルドリウスがなにか――。

 

「あなたいったい、何をしたの!?」

目をつりあがらせた女が、フライヤの首を締め上げた。だれも、止めてくれない。背の低いフライヤは宙づりにされて、苦しくてもがいた。

「な、なに、を? わたし、分からな――」

「ちょっと、下ろしなさい。下ろしなさいあなた、」

管理官がようやく、止めに入ってくれた。女はフライヤを突き飛ばすようにして手を離し、フライヤはドアに背を打ち付けた。

 

いったい、なにが――?

フライヤには、見当もつかない。

 

「彼女がね、今朝あんたが来る前に、心理作戦部に経理書類を取りに行ったら、『昨日来たヤツは来ないのか!』って怒鳴られたらしくてね」

管理官が苦い顔で説明すると、経理部の女性軍人が、泣き腫れた顔で吐き捨てた。

「なんで私が、あんな穴倉に行かなきゃいけないのよ! しかも行ったら行ったで怒鳴られて!」

「今朝経理部に、佐官が来て、なんで庶務部に取りに行かせてるんだって全員叱責されたうえに、取りに行ったら行ったで、アイリーン隊長にバインダー投げつけられたらしくてね。――あんた、アイリーン隊長になにかしたの」

「いっ……いいえ……あのっ、心当たりは……、」

 「私があなたの代わりに頭下げて謝ってきたのよ!? 昨日きた者が失礼をしていましたらすみませんって!! アイリーン隊長、激怒してたわ!! 私にバインダー投げつけて、『出ていけ』って――なんでこんな目に遭わなきゃいけないのよ!!」

 嘆く経理部の彼女を、庶務部の皆が声をかけたり、肩を抱いて慰めた。

「第一どこから漏れたのよ! 庶務部の誰かが、うえに告げ口したんじゃないの!? でなきゃ、いきなりバスコーレン大佐が来るわけないわ!」

慰めているのに、自分たちのせいにされた庶務部はいっせいに顔をしかめた。フライヤだけが犯人を知っているが、言う気はなかった。

 

「うちの者が、うえにコンタクト取れるわけないでしょう。うち、庶務部ですよ?」

管理官がさすがに呆れた声で言ったが、彼だけは、フライヤがエルドリウスの妻だと言うことを知っているので、黒幕の正体は見抜いているかもしれなかった。

フライヤが庶務部に所属するとき、いろいろと面倒なことになりそうなので、エルドリウスの妻だということは伏せていた。庶務部で名乗っている姓もメルフェスカのままである。だが管理官は、部署の人間の連絡先など把握しておかなければならないので、管理官だけはフライヤの身元を知っている。

 

「じゃあなんでわざわざうちに、大佐が来るのよ!!」

管理官の言葉もまともに聞かず、癇癪を爆発させる経理部の女性に、庶務部ではお局クラスの豊満な女性軍人が、我慢しかねたように口を尖らせてぼやいた。

「……アイリーン隊長は、いつも言います。なんで経理部が来ないんだって」

「なんですって?」

「心理作戦部がうえに言ったんじゃないですか? 最近ではあまり言われなくなってきましたけど、アイリーン隊長は、経理部が自分で取りに来ないのをずっと不満に思ってました。だから、アイリーン隊長が上申を、」

「だからなに!? 私たちのせいだって言いたいの!? 庶務部なんていつもお菓子食べてお喋りしてるだけじゃない! 私たちは忙しいのよ! 経理書類取りにいってもらうくらいのことがなによ! そもそも、心理作戦部が毎週、決められた期日に提出してれば……!」

「ま、まあまあ。その辺にしてください」

管理官が止めに入って、やっと庶務部と経理部の争いは止まった。

「経理部さんはお忙しいんでしょう。早くもどってください。こちらはこちらでちゃんと、もう一度フライヤさんに行ってもらいますから」

管理官の皮肉とも取れる言葉に、経理部はむっとしたようだったが、たしかに随分と時間が過ぎていた。それ以上ケンカ腰の会話を続けることもなく、荒々しくドアを開けて出ていった。彼女が出ていった途端、庶務部が蝉のように騒ぎ出した。経理部の悪口雑言が、これでもかと出てくる。

「悪いが、もう一度行ってもらえるかね」

フライヤは管理官に封筒と地図を渡され、うなずいた。

 

昨日から、ショッキングな出来事が――あまりにいろいろなことが続きすぎて、フライヤの腹は、逆に据わっていた。きのう、エルドリウスと話したことも、ずいぶん力になっていたかもしれない。

少なくともエルドリウスを、あんなに頼もしく感じたのははじめてだった。今まで、エルドリウスに対する緊張ばかりが優先して、彼の本当の頼もしさとか、優しさとか、思いやりとか、そういったものが遠く感じて、実感できていなかったのかもしれないとフライヤは思った。

昨日までの退屈で、沈んだ心は今やなかった。オリーヴと、L05の任務に行ったときのように、冷静だが、胸が熱くなる感覚が蘇ってきた気がする。

地下四階の心理作戦部へ向かうエレベーターの中でフライヤは、さっきの皆の言葉を反芻していた。

 

――アイリーン隊長は、いつも言います。なんで経理部が来ないんだって。

 

 さっき、庶務部のお局はそう言っていた。その言葉が本当だとすると、アイリーンは、経理部が自ら取りに来ないことを怒っている。

 (もしかしたら、けっこう真面目なひとなのかもしれない……)

 今回は、すでに連絡済みだからいいが、次回フライヤが心理作戦部に行くときは、「これから経理書類を取りに伺います」と連絡してから、取りに行くことにしようと決めた。事前連絡をすれば、相手も気分が違うだろう。

 

 やはり地下四階の雰囲気は、昨日と同じく不気味だったが、フライヤはごくりと唾を呑み、それでもキリリと顔を引き締めて隊長室へ向かった。今日は、不気味な声は聞こえない。隊長室の前まで来たフライヤは、ノックのあとに、昨日とは違うはっきりとした声で――緊張に強張ってはいたが――「庶務部のフライヤ・G・メルフェスカです。経理書類をいただきに参りました」と言った。

 とたん――ドア向こうでガタガタっ! と何かが大きく動く音がして、咳払い、そして、「入れ!」と大きな声がした。その声が大きくとも、フライヤを怯えさせなかったのは、なぜか上擦っていたからだ。

 

 「失礼します」

 「よ――よ――よく、来た」

 ……なんだか分からないけれど、アイリーン隊長――昨日の黒い悪魔が、机の前に立っていた。妙に引きつった顔をして。

 (やっぱり! 怒ってる……!)

 フライヤは、その顔を見た途端にさっきまでの威勢はぷしゅうと消えた。恐怖と緊張のほうが上回って、「き、きのうはすみませんでしたっ!」と深々と頭を下げた。

 

 「え?」

 アイリーンの声が、頭上から降ってくる。

 「き、昨日は――連絡もなしに取りに伺って――申し訳ありません! 次回からは、ちゃんと取りに伺う旨をご連絡してから――、」

 「さっきここに来た女が、なにか言ったのか? 君に?」

 地獄の獄卒がいるとしたら、こういう声だ。

 「い、いえっ、あのっ、ああのっ……いえなにも……」

言えるわけがない。あなたにバインダーを投げつけられたことをさんざ喚いて八つ当たりしていきましたよなんて。フライヤは頭を上げられなかったが、今すぐここを去りたかった。経理部の人はバインダーを投げつけられたと言ったが、自分は何を投げつけられるのだろう。

 戦々恐々、びくびくとしていたが――。

 

 「けっ……」

 ――け?

 「ケっ、ケケケケーキは、好きか?」