(ん?)

 下げ過ぎてだんだん血が集まりかけていたフライヤの頭に、おかしな情報が入ってきた。今なんて聞かれた? ケーキは好きか? 怖すぎて幻聴が聞こえたのだろうか。

恐る恐る、頭を上げ――ると、アイリーンが、ケーキの箱を開け、フライヤに見せていた。――否、見せていた、というより顔の前に突き出していた。

 

 「ど、どれがいい――。僕は、チーズケーキが、す、好きだ」

 「え? あ、わ、私、ですか……?」

 「う――うん」

 「あ、えと……」

 おそらく有名店であろう店のケーキの箱の中には、十個ほども、色とりどりのケーキが入っている。チーズケーキと思しきケーキも二個ある。チーズケーキだけが二個あるということは、フライヤがチーズケーキを選んだとしても、アイリーンも食べられる。

 「ほ――ほかのケーキも美味いんだ……モンブランなんか……でも僕は、この店のチーズケーキがいちばん美味しいと思う……」

 ぼそぼそと言うアイリーンに、フライヤは反射で、「あ、じゃあチーズケーキで、」と答えてしまっていた。

 「そ、そうか……!」

 アイリーンの声色で、なんとなく、チーズケーキを選んでほしかったんだなということは、フライヤにも見当がついた。アイリーンはいそいそと箱からケーキを取り出し、二つの皿に置き、「コーヒーと紅茶、どっちがいい?」と再び尋ねた。

 「あ……こ、紅茶で、」

 フライヤが言うと、「紅茶か! 僕も紅茶が好きなんだ」と妙に弾んだ声で言った。

 「アールグレイで、構わないか」

 「あ、わたし、アールグレイ大好きです……!」

 そういうと、今度はほんとうにアイリーンの顔が笑顔になった。――さっきの、引きつった笑みではなくて。

 そう。フライヤが怒りの形相と勘違いした引きつり顔は、実はアイリーンの精いっぱいの笑みだったのである。

 「僕もだ! ぼ、僕たちは、気が合うな!」

 「あ、――はあ……」

 フライヤは、なんとか愛想笑いを返した。状況に、頭と体がついていかなかったのだ。

 

 

 

 (――いったい、この状況はなんなの)

 

 フライヤの優秀な方である脳みそすらも処理遅れを起こすほど、この状況は不可解極まりなかった。鬼悪魔と恐れられている、誰も近づきたがらない、心理作戦部の恐怖の根源であるアイリーン隊長と、膝を突き合わせてケーキを食っている――。

 

 「う、うまいか?」

 ずいぶんとアイリーンは、フライヤを気にしているようで、相変わらずチラチラとフライヤを横目で見ながら尋ねてくる。フライヤは緊張と困惑でケーキの味など分からなかったが、この状況下で「分かりません」などと答えられるわけもなく、「お、おいしい、です」と慌てて言った。ごくり。大きな音を立ててケーキが喉を通っていく。

 

 「そ、そうか……良かった……」

 アイリーンは肩の荷が下りたような顔をし、ケーキを突ついた。アイリーンはケーキをつつくばかりで一向に口に運ばない。それが、彼女の緊張によるものだということは、フライヤには未だ分かろうはずがない。いつしかアイリーンの皿のチーズケーキは、原形をとどめることもなく崩れ、粉チーズと化していた。

 

 「き、貴様は……」

 フライヤにとっては鉄の扉より重たい沈黙が五分ほど続いた後、アイリーンは皿を机に置いた。

 「貴様は――あの、いや、君は――あの、エルドリウスの妻だって?」

 「へっ?」

 フライヤが甲高い声をあげたのに、あわててアイリーンは手を振った。

 「あ、いや、すまない。その――悪いことをしたと思っている。その――君のことが知りたかっただけなんだ――ほんのちょっと。な、内情までは――そんなに根掘り葉掘り聞いてはいない。ただその、――庶務部の管理官に、すこし、聞いてみただけだ。そうしたら、君は、エルドリウス大佐の妻だって聞いて――驚いた」

 「……」

 

 フライヤは、もう一度大きな音を立ててケーキをごくりとやり、それから、糖分のためか(一応そういうことにしておく)にわかに動き出した脳みそで、ようやっと、状況を把握し始めた。

 なんだ、すべては、エルドリウスの妻だということが、原因か。

 アイリーンがフライヤを、「貴様」呼びを改めて、「君」と呼び始めたのも。こんなところで、ケーキをごちそうしてくれているのも。

 原因が分かったせいで、フライヤもようやく肩の荷が下りた。

心理作戦部のアイリーンは庶務部経理部だけでなく、名前を聞いただけでどの部署のだれもが震えあがる暴君だ。

そんな彼女に、バインダーを投げつけられるどころか、厚遇ともいえる扱いをされて、フライヤは戸惑っていた。だがそれも、エルドリウスがバックにいるからだと考えれば納得がいく。エルドリウスの影響力はこんなところまであるのかと感嘆しながら、安堵のためにふうーっと大きなためいきを吐きそうになって、あわてて堪えた。

 

 「君は、出自が傭兵だって聞いて――そっちも、その、驚いた。でもまあ、あのエルドリウスなら、やりかねんな」

 瞬間、フライヤの顔が強張ったのを見て、アイリーンはかすかに綻ばせた顔を同じ理由で痙攣させた。

 「あっ……すまない。いや、べつに、君が傭兵だからどうとか――いうわけでは、ないんだ」

 アイリーンは、急に、はっきりと怯えた目になったフライヤに、眉じりを下げた。つづける言葉を見失い、俯いたアイリーン。

どうしようもない沈黙が訪れた。

アイリーンは、フライヤに声を掛けようとし、詰まり、肩を落とすという動作を三回ほど繰り返した。その態度を見てさすがにフライヤも、想像すらしがたかったことではあるが――アイリーンが落ち込んでいる――ように見えたために、フライヤのほうが今度、恐る恐る、声をかける番だった。

 「あの……、」

 「なっ、なんだ!?」

 「ひっ!!」

 フライヤに話しかけられたのが嬉しくて、つい大声で返してしまったアイリーンだったが、フライヤが身を竦めるのを見てまたショボンとした。

 フライヤもいっぱいいっぱいであり、そしてまた、アイリーンもいっぱいいっぱいであった。互いの緊張を見抜く余裕もないほど。アイリーンは大好きなチーズケーキを粉状にし、紅茶の味を間違えるわけもないフライヤが、ダージリンかアールグレイか分からなくなるほど。


 「あ、あの……」


 アイリーンは、恐らくはフライヤに、むやみやたらに怒鳴ったりはしない。バインダーも投げつけたりしないし、その腰のサーベルを抜いて襲い掛かってくることも、きっと、ない。バックの神様仏様エルドリウス様に手を合わせてフライヤは、思い切って聞いた。

 

 「わ、私が傭兵だって知って――な、なんで、ケーキなんか、ごちそうしてくれたんですか」

 「え?」

 

 フライヤは、言ってから後悔した。

アイリーンは、フライヤのバックにいるエルドリウスに対して、腹に一物あるのだろうか。たとえば、お近づきになりたいとか? だから、フライヤに遠慮がちな言葉をかけるのだろうか。でも、貴族軍人であるはずのアイリーンが、フライヤを元傭兵だと知ってもこの態度なのは、フライヤには不思議な部分が多く、それらたくさんの疑問符が、この短くも、単純な言葉に集約されてしまったわけだ。

言ってから、もう少しべつの聞きようがあったと、言葉で失敗して死を招くという現実が実際あるものだと、たいそうな取り越し苦労をしてフライヤは自分の死を思ったが、アイリーンのほうは、フライヤに言われた意味が分からずに少し呆け――そして理解した。

 

 アイリーンは、フライヤが気分を害したと思ったのだが、違うとわかった。アイリーンは、自分の立場を失念していたことに気付いた。

心理作戦部の隊長と言えば、相手は勝手に貴族階級だと思い込む。そもそも、アイリーンの出自など説明せねば分からぬことだ。傭兵は、古来より貴族階級の軍人には差別されている。それは、軍事惑星の常識ともいえる現実であり、そのためにフライヤは、自分が傭兵だということを、貴族階級の軍人に悟られたことに怯えたのだ。

 フライヤの声は、はじめ来たときより震えていた。アイリーンは、かわいそうなことをしたと自分が涙ぐみそうになりながら、小さく言った。