「今日は楽しかったね、また明日ね!」 ミシェルとクラウドは自分たちの部屋にもどった。ルナはさっさとピエトを寝かせようと思い、昼間外に出していた洗濯物を取り込み、お風呂掃除をして、お風呂に湯をはった。明日はお米をピエトに食べさせてあげよう。ルナはお米を洗って炊飯器にセットして、リビングをのぞいた。もう十一時近い。 「ピエト、お風呂入って。早く寝るのよ……」 リビングでテレビを見ていたはずのピエトがいない。もう寝てしまったのかと思ってルナは寝室へ行った。いない。昨夜は、ルナとピエトが寝室で寝て、アズラエルはリビングのソファで寝た。ピエトの部屋を用意しなくちゃいけないなあとルナは思いながら、トイレのドアを叩いてみたり、キッチン、書斎、お湯はり中のお風呂、と覗いた。いない。念のため、と物置化している空き部屋も――ここはアズラエルが鍵をかけているが――開くはずはなかった。鍵はかかったままだ。 ルナは、「たいへんだ!」と叫んだ。 たたたたたーっとルナにしては精いっぱいの早足で玄関のドアを開け、「ピエト!」と外に向かって叫んだ。返事はない。ルナはミシェルたちの部屋のインターフォンを鳴らした。 『どうしたのー? ルナ』 向こうから、ミシェルの呑気な声が聞こえる。ルナは近所迷惑も顧みず叫んだ。 「ピエトがいなくなっちゃった!」 そのころ、アズラエルはラガーのカウンターでひとり、彼にしては恐ろしいほどらしくなく、両手をポケットに突っ込み、ぼうっと宙を眺めていた――。本人にとってはそんな感じだったが、アズラエルの姿を見て声を掛けようとした知りあいがことごとく逃げていくのは、どうしたってそんな態には見えないということだ。 一度きたら、半分は減らすはずのボトルキープのウィスキーの瓶からは、一杯作られただけ。それすらほとんど手を付けず、ほとんど素面の状態でアズラエルはそこにいた。 ぼんやりした状態でも、ルナとアズラエルでは外見が徹底的に違う。ルナの場合はアホ面間違いなしだが、アズラエルの場合は、考えごとに頭を埋め尽くされた状態の外見は、非常に劣悪な環境になる。すなわち、誰も近づけないほど怖いのだ。顔が。 アズラエルは心外だろうが、その凶悪な顔のお蔭で誰も近づかず、思考に集中できるのはいいことだっただろう。とりあえず、ラガーの店長にとってはアズラエルの顔など凶悪の部類に入らないので、(本人が三割増し怖い面をしている。)たまにぼそっと話しかける程度にしていた。だが、なにか考え事をしているであろうことは分かったので、だいたいそっとしておいたというのが正しい。 (嫉妬とか、ガキは面倒だからとか、そんなんじゃなくて) ルナのことを笑えない。アズラエルの思考はずっと堂々巡りだった。認めなければ先へ進めない、結論が出せない。それでも認められないのは恐怖があるからだ。恐怖。死も恐れずに仕事をしてきた傭兵が、認めることにおびえる恐怖。 (なんでなんだ。――ピエトでなくても、いつかくる、そういうときは) ピエトでなくてもいつか来る。ルナと自分に子どもができる。それは本来なら幸福の象徴であるはずだ。アズラエルはルナとの間だったら、子どもは欲しい。子どもは三人欲しい。ルナが望むなら、もっといてもいい。将来ほしい子どもの数を数えるなんて、能天気なガキのように浮かれることができる。その気持ちも本当だ。 (だが、それと同時に腹の底からせり上がってくるこの恐怖感はなんだ) ピエトがラグバダ族だとか、アバド病だとか、可愛くないガキだとか、結婚する前から子持ちになってたまるかという思いも本物ではある。だがそれらは、実のところたいした問題ではない。ほんとうは。 朝、クラウドにいった言葉は本音を隠した、ただのいいわけ。アズラエルの本心は――怖かった、だけだ。 前世とか、過去とか、ルナやサルーディーバたちの話を鵜呑みにしているわけではない。なのに、理性では抑えきれない胸底からこみあげる気分の悪さ。 具体的な幸せがめのまえにチラつけば、同じだけ恐怖もあふれ出る。ルナを失う恐怖。――いや、厳密には、ルナとの幸せを失う、恐怖。 (なぜ、そんなことを考える) アズラエルは冷や汗が滲んだ掌を拳にして、そっとカウンターの上へ置いた。 アズラエルはなにがなんでもルナと結婚するつもりでいる。それは疑いようがなかった。ルナの父がドローレスだとしても、傭兵との結婚は、まず確実に反対されるだろうとしても。アズラエルは、ルナのためになら傭兵をやめてもよかった。 ルナを大切にしたい。幸せにしたい。その気持ちは紛れもなく本物だが、同時に湧き起こる疑念――。 また、ルナを苦しめないと――傷つけないと、ほんとうに約束できるのか? “いままで”だって、アズラエルは決してルナを苦しめたいわけではなかった。壊したいわけではなかった。 ――殺したい、わけではなかった。 ピエトに笑いかけるルナの姿を、あの朝の、食卓の何気ない光景を、本当の自分は好ましく思っていた。ほしかった姿だ。ルナを妻にし、子どもをつくり、幸せな家庭を築く。アズラエルがほしかったものだ。望んでいたもの。ピエトは邪魔などではない、アズラエルが望んでいた光景がめのまえにあったのだ。ルナと築く、幸福な家庭の縮図、だがそれを直視したとたんに、それが崩壊するさまも容易に想像できた。 ――そう、それを壊すのは自分だ。 幸せを、完膚なきまでに破壊するのも、自分。 (バカなことを) また自分は失敗するのではないか。ルナを壊してしまうのではないか。 なぜこんなことを考えるのかがわからない。アズラエルは、ルナのこと以外に関しては、すべてにおいて楽観的だと思う。ルナのことだけだ。ここまで意味不明な取り越し苦労をしてしまうのは。 嫌な汗をごまかすように、ひとつ大きく息を吐き、グラスの酒を呷った。解決のめどなどつかない。付きようがない。これは、アズラエルの中でだけしか、解決しえない問題なのだから。 (考えたってどうにもならねえことだな) アズラエルは、一度顔をぬぐい、体全体で大きくためいきを吐いた。 氷がとけて、大分薄くなっていたそれをひと息で流し込み、「オルティス、もう一杯くれ」とグラスを掲げて見せた。そこで、やっと気づいた。 (誰だ) アズラエルは今日初めて店内の様子に注意を払った。壁ぎわのボックス席で女と飲んでいる男と目が合う。ぴたりと目があった、ということは、相手のほうがずっとアズラエルを見ていたということだ。男はまるで旧知のように親しげに手を振った。 グラスに新しい氷と酒を入れてアズラエルへ差し出したラガーの店主に、アズラエルは聞いた。 「誰だあいつ」 「お前の知り合いのことなんざ、俺が知るかよ――って、ああ、あいつは知ってる。え? おまえ知らねえのか?」 「知らねえ」 水色のソフトモヒカンの男なんて、一度見たらなかなか忘れないとアズラエルは思うのだが。水色の頭に黄色いTシャツを着てピンクのジャケットなんて、どんな趣味の持ち主だ。 「ロビンが、あいつはお前と同期だって言ってたぜ。なんだっけ? たしか、あー……、アンダー・カバーとかいう傭兵グループの、」 「ライアン?」 アズラエルが言ったと同時に、左肩がポンとたたかれた。 「この薄情モン、俺の顔忘れてたろ」 笑ったライアンが、アズラエルに断わりもせず隣に腰を下ろしていた。 「お前の顔、個性的なわりに覚えられねえんだよ」 「言いやがって」 爆笑するライアンは、気を悪くはしていないようだった。彼にとっては、「人に顔を覚えてもらえない」ことが仕事を有利に運ばせる特権であるのだから。彼の傭兵グループはその名の通り、探偵まがいの特殊な傭兵家業を請け負っている。 水色ソフトモヒカンの、個性的なはずなのに覚えにくい顔のライアン・G・ディエゴは、アカラ第一軍事教練学校で、アズラエルの同期ではなく、一つ下の学年だった。アズラエルに一つだけ言い訳を許すならば、ライアンは学生時代は水色ではなく、地毛の黒髪だった。だから気づかなかった。 ライアンはアズラエルと特に親しかったというわけではないが、当時ずいぶんと恐れられていたアズラエルにも物おじせず話しかけてきたつわものだ。アズラエルを先輩呼ばわりもせず、かといって不良グループに入っているわけでもなく、どちらかというと一匹狼のような男で、「なあ、おれが傭兵グループ作ったら入ってよ」などと勧誘ばかりしてきた変わった後輩だった――というのがアズラエルの印象。 「おまえ、宇宙船にのってたのか」 「アンタ、久しぶりとかねえの? 挨拶は人間関係を円満にする潤滑剤だぜ」 「口をひらけば挨拶より先に勧誘してたやつがよく言うよ」 「そんなこともあったよな懐かしい。うんまあね。チケット当たってさあ。オルドと乗ったよ」 アズラエルが聞こうと思ったことは、勝手にそちらからしゃべってくれた。 「オルド? しらねえな」 「知っといてくれよ。おれのグループのナンバー2なんだからさ」 「今年一月に作ったばっかのグループなら、名前が浸透してなくてもしょうがねえだろ」 「そうだなあ。まだメジャーには遠いな俺たちのグループは。だからさ、メジャーなアズラエル先輩が入ってくれよ。俺のグループに」 「来たな勧誘」 「いやまあ、それがおれの挨拶だし?」
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