(なにやってんだ、あいつ) アズラエルは驚きとあきれが先行して、いつものようにすぐスツールを立てなかった。 (なんでこんなとこにいるんだ) 薄汚い男ふたりに襟首を摘み上げられているのは、ピエトだ。 「ちっくしょう! 離しやがれ! ちくしょう!」 「なんだ、まだガキじゃねえか」 ラガーの店長が行こうとしたのをアズラエルが制して立った。ラガーの店長が不思議そうにアズラエルを見ている。 「何かしたのか、そこのクソガキが」 アズラエルがポケットに手を突っ込んだまま現れると、薄汚い男たちは一瞬怯み、ピエトは目を真ん丸にして、思い切り暴れだした。アズラエルに見つかる予定ではなかったらしい。だが薄汚くはあっても、ピエトをつかんでいる男は、脳みそまで筋肉化しているような図体だ。ピエトが逃げられるわけはなかった。 「てめえが親か」 アズラエルは答えなかった。 「そのガキが、何をしたっていうんだ?」 アズラエルの問いに、男は――ピエトをつかんでいない、太っちょの赤い鼻のほうは、ぼろぼろの皮財布で、ピタピタとアズラエルの立派な大胸筋を叩いた。 「俺の財布をスリやがった。どう落とし前つけてくれんだ? え?」 「俺じゃねえ! 俺やってねえよ!!」 ピエトが大声で叫んだ。焦った声で、違う、違う、と叫ぶ。だが、アズラエルは冷たい目でピエトを一瞥した。 「てめえの言うことを、俺が信じると思うのか?」 その言葉に、ピエトは硬直した。青ざめた顔で、唇をかんで俯く。 信じてもらえなくても無理はない。ピエトはずっとスリをしてきたのだし、ルナのバッグだって盗んだ。アズラエルが信じなくても無理もない。 「でも――で、も、俺じゃ……、」 でも今回は、ピエトは何もやっていない。盗んでいない。この店に入ろうとしたら、いきなり男がぶつかってきて、なぜだかピエトのジャケットの裏から、知らない財布を出したのだ。 「おまえ、L85に帰りたいんじゃなかったのか」 アズラエルの声には何の感情もこもっていない。 「嬉しいだろ? 今度こそ、帰れるぞ」 「……っ、おれ、は、」 ピエトの目からぽたり、としずくが落ちた。二メートル強もありそうな男につかみあげられた状態だったので、アズラエルにもピエトの涙はよく見えた。 (ルナと、暮らしたかったのに) 嗚咽で言葉にならなかった。なんて運が悪いのだろう。ずっとスリをしてきた罰が当たったのか。 ルナは優しくてあたたかくて、いい匂いがした。ピエトが母星でみてきたどの女とも違っていた。きっと裕福な星から来たんだろうなと、最初はまぶしい気もしたけれど、ルナはピエトがバッグを盗んだのに怒りもせず、おいしいご飯をくれた。ルナも一緒に暮らしたいと言ってくれた。 (やっと、寂しくなくなったのに) だがピエトは諦めた。いつだって彼はそうしてきたのだ。諦めることしかできなかったのだ。親も弟も、みな病気で死んだ。寂しいと思っても、もうだれも、そばにいない。仲間はいるけれど、みんなだって本当は生きていくのに精いっぱい。ピエトの面倒は見きれない。スリで盗んだ金も食べ物も、ゲリラにみんな持って行かれる。ピエトの周りには、いつも何も残らない。 手をだらんと垂らしたまましゃくりあげるピエトに、またアズラエルの言葉が降ってきた。 「……ルナを泣かせねえと、約束できるか」 ピエトは、泣きべその顔を上げた。 「二度と盗むな、それから、L85に帰りたいとは言うな。てめえが帰りたいといえば、ルナは傷つく。ちゃんと病気を治して、ルナに心配させるな。あと、タケルたちと仲良くやれ。あいつらは、どんな形であれおまえのことを考えてる。それから、ちゃんと学校へ行け。この約束が守れるなら、俺はいますぐおまえを助けてやる。どうだ、約束できるか」 ピエトは、何を言われたかわからない顔でぽかんと口を開けていた。焦れた太っちょが、「おい、財布の中身が足りねえぞ」とにやけた面で言っているのを、アズラエルもピエトも聞いていなかった。 「返事は」 アズラエルがドスの利いた声で脅すと、ピエトは一秒間に十回くらいのスピードで頷いた。 「よし」 アズラエルの返事とともに、ごきりという音をピエトは聞いた。だれかのあごの骨が砕ける音。ピエトはガクンと沈んで、尻もちをつくかと思ったら、宙に浮いたままだった。今度はアズラエルがピエトの襟首をつかんでいたのだった。ピエトが後ろを振り向くと、巨人がドアの向こうに上半身を倒して伸びていた。ピエトが「すげえ……」と呟く間もなく、逃げようとした太っちょを、アズラエルがサスペンダーをひっつかんで止めていた。 「オルティス」 ラガーの店長はそれだけで承知したというように、「フランシス!」と叫んだ。すると店の奥から、フランシスと呼ばれた人物がのっそりとこちらへやってきた。ピエトは宙づりにされたまま飛び上がるところだった。そいつはピエトを捕まえていた巨人より大きくて、顔は傷だらけで、眉毛がなくて、スーツを着た厳めしいゴリラだった。 太っちょと巨人の担当役員である元傭兵の、フランシス――フランシスという顔ではなかったが――も、この店の常連だ。仕事上がりの一杯をいい気分でやっていたはずの気の毒な役員は、おおげさに肩を落として二人を見やり、ずいぶん涼しげな声で、「明日、お客様には宇宙船を降りていただきます」といった。 ピエトは自分が言われたわけではないのに、その痩せた肩をびくりとさせた。 「まったく……乗って二週間もたっていないってのに……。スリはやめてくれって言ったでしょう、あんたたち前科だらけなんだから、情状酌量もききませんよ。明日即座に降船ね」 「冗談じゃねえぞ、そのガキがスリやがったってのに、」 「あんたらが“当たり屋”だってことは、このメフラー商社の傭兵さんはとっくにご存知ですよ!」 役員の言葉に、ふとっちょはようやく黙った。メフラー商社、が効いたのか、当たり屋とバレていたことが効いたのか。巨人はすでにアズラエルによって強制的に黙らせられていた。言葉遣いは丁寧だが、伸びた巨人を引きずり、太った男をボールでも蹴飛ばすように外に押しやりながら、フランシスは店から出て行った。店先に常駐しているタクシーで、スリふたりは連行されていったようだ。 「あ、あたりやって、なんだ?」 ピエトは、聞きなれない言葉を、誰に聞くともなくつぶやいていた。ラガーの店長が、教えてくれる。 「当たり屋っていうのはなあ、軍事惑星じゃ、わざと車にぶつかって金もらう奴らのことだけじゃなく、ああやって、わざとぶつかって相手の懐に自分の財布入れて、スッタナンダと難癖つけて、倍の金むしり取る奴らのことも、そういうんだよ。坊主は災難だったな」 ピエトは無意識に、ジャケットを撫でた。そうだ、さっきのふとっちょがぶつかってきたあと、ピエトのジャケットの裏から財布を出したのだ。ピエトが見たことのない財布を。 「あ、あんなスリも、いんのかよ……」 「手本にすんじゃねえぞ」 アズラエルの釘差しに、ピエトはやっと、アズラエルに助けられたことを自覚した。 「わ、わかってるよ!」 「さっき俺が言ったこと、ちゃんと覚えてるか」 「……盗まねえこと、それから、L85に帰りたいって言わねえこと。び、病気を治すこと、タケルたちと仲良くすること――学校、行くこと」 ぼそぼそというと、 「そうだ。ちゃんと覚えてんじゃねえか」 はじめてアズラエルが笑った。その笑顔は、ルナに向けているものと同じだった。ピエトは目を見張り、また俯いた。アズラエルが、ピエトを信じてくれるとは思わなかったのだ。ジャケットの袖で涙をぬぐっているのを、アズラエルは見ないふりをした。男の涙にあれこれ言うのは、無粋なだけだ。 |