「まあ飲め、坊主」 ラガーの店長が、温かいミルクをピエトに差し出した。ピエトが鼻をすすりながらそれを飲んでいると、カランカラン! とまた派手な音を立てて扉が開いた。 「「ルナ」」 アズラエルとピエトの声が被り、ふたりそろって苦い顔をした。だがピエトは、大好きなルナが迎えに来たことに、上機嫌になるわけにはいかなかった。ピエトはルナに飛びつく代わりに後ずさりした。なぜなら、さっきのアズラエルより怖い顔をしたルナが、いつもならててててーっと軽やかに走ってくるところを、ずんずんずん! とウサギとは思えない歩き方で寄ってきたからだ。 「ピエトっ!!」 ピエトはおもわず腰が引けたが、逃げることは許されなかった。 「心配かけてっ!!」 だが、逃げなくてよかったとピエトは思った。ルナの胸に、思いっきり抱きしめられたからだ。アズラエルがひょいとミルクのカップを取り上げてくれなければ、おもいきりルナの服を乳臭くしていたところだ。 「よかった……! 何にもなくて! どこかで倒れてたらどうしようとおもった……!」 「お、おれは、だいじょうぶ、だよ……」 ピエトは、ルナがどうしてこんなに心配したのか、わからなかった。病気は確かに病気だが、雨の中を傘もなしに走り回ったりすることでもなければ、ピエトは元気なのだ。このあいだルナたちのまえで倒れたのは、タケルたちへの反抗心のせいで、決められた時間に薬を飲んでいなかったから。いまは、ルナがしっかり見張っているので、ピエトはちゃんと薬を飲んでいる。だから大丈夫なのだ。 「病気のことだけじゃないよ。子どもがこんな遅くに出歩いたら心配するの! ふつうは! 少なくともあたしの星ではそうだった」 「……そっか」 ピエトには夜遅く出歩いても、注意する親はいなかった。母星にいたころは、このくらい遅くなってから、繁華街に行ってスリをしていたのだ。コミュニティーのおとなたちは夜には繁華街にいたし、「早く帰って寝ろよ」ということはあっても、基本的にうるさくいうことはなかった。 でも、心配されるのは嫌ではなかった。ルナのいい匂いに包まれて、なんだかこそばゆいような、幸せな気持ちだとピエトは思った。 「やっぱりここだったんだね」 クラウドもいつのまにかそこにいた。ルナの後を追うようにして入ってきたのに、誰も気が付かなかったのだ。 「おまえ、もうピエトのデータ、GPSに入れたのか」 「いや。たぶんラガーだと言ったのはルナちゃんだよ」 「ルナが?」 「あっ! そうだ!!」 ピエトはルナの胸から名残惜しげに身体を離すと、 「アズラエル! てめーも俺と約束しろ! 浮気はするんじゃねえぞ!!」 「あァ?」 ルナは苦笑した。ピエトがラガーに来た理由は、ルナの予想通りだった。ピエトは、アズラエルが浮気していないかどうか、確かめにきたのだ。 ピエトは、アズラエルが浮気をしていると、傭兵は浮気をするものなのだと頑なに信じていた。ルナは昼間、さんざんピエトに言われたことを思い出したのだった。だから、もしかしてという気持ちでラガーに来てみたのだ。 来てみたら正解だった。ほかの子どもだったらこんなことをするとは考えないが、ピエトは中央区までだって、タクシーに乗って行ってしまう。タクシーに乗って「ラガーに行って」といえば、簡単にたどり着ける。子どもがバーに行くことを運転手は訝しんだかもしれないが、小賢しいピエトのことだから、「パパを迎えに行く」とでもなんでもいって、運転手を丸め込んだのだろう。 「浮気って、なんのことだ」 ルナは帰り道で、昼間ピエトとした話をしてあげようと思った。ピエトは胸をそらしてアズラエルに宣言した。 「約束しろ! ルナを泣かすなよ!!」 (ルナを泣かすなよ、か) 泣かせない。泣かせたくはない。迷いがなくなったわけではないが、自分の懸念が取り越し苦労だということも分かっている。 アズラエルは忌々しいガキだと思ったので遠慮なくデコピンをし、ピエトが悶絶している間に「誰が泣かすか」と笑った。 ルナはラガーから、家で待機しているミシェルに電話をした。ピエトがラガーにいたことを告げると、「まったく、人騒がせなガキ〜」と大あくびをして、ミシェルは電話を切った。 帰りは二台のタクシーで帰路についた。ルナの膝を枕に、ピエトはあっというまに眠りについた。ルナたちが乗ったタクシーを後ろから追う二台目のタクシーの中で、アズラエルはクラウドから、ピエトがラガーに来た理由を知った。 「……俺が浮気してるって? それで確かめに来たのか?」 嘆息交じりのアズラエルも大あくびをした。昨夜はあまり寝つけなかった。だが、今日は夢も見ずに眠れそうだ。 「ガキのすることはわからねえな」 「ルナちゃんは、アズの浮気については否定したそうだけどね。――それで、決心はついたの」 「なんの」 「ピエトと暮らす決心」 「決心もクソも、いまさらタケルに突っ返せやしねえだろうが」 恐怖が消えたわけではない。またぞろ、何かがきっかけでぶり返すこともあるだろう。だがアズラエルは決めたのだ、決めたことを覆すつもりはない。 「――なあ、アズ。なんで俺たちがそばにいるのか、考えたことはある?」 「あァ?」 クラウドの透明な目が、アズラエルを見据えていた。 「アズラエルはもう、ルナちゃんを傷つけない。すくなくとも、アズラエル自身がそう決意しているんだから。アズが自分を信じ切ることはまだできなくても、俺がアズを信じる」 「……」 アズラエルは呆気にとられてクラウドを見た。 「アズがルナちゃんを傷つけそうになったら、止められる人間は、今はいくらでもいるってことさ。……だから、怖がらなくていい。アズは、ルナちゃんと世界にたったふたりきりなわけじゃない」 「……そうだな」 珍しく素直にうなずいたアズラエルに、驚いたのはクラウドのほうだったが、アズラエルはもう、窓にもたれ掛って目を閉じていた。 「……ねえ、あの傭兵と知り合いなの」 「ン? ああ、俺の学生時代の先輩」 ライアンが言うと、彼女は「傭兵にも学校ってあるんだ」と半笑いの表情で言った。「傭兵の学校って、暗殺とか勉強するの」「いんや。おまえらの学校と同じだよ。遠足もありゃ、体育祭もある」「……」 女は無言になった。期待した応えとは違っていたようだ。自分の無知を棚に上げて、この女は映画やドラマで見る暗殺者タイプのキャラクターを、傭兵に当てはめて考えている。そのイメージから外れれば外れるだけ、幻滅の度合いを深めていくのがライアンにもわかった。彼女は暗殺者が暗殺を学ぶのに異存はないが、遠足や体育祭をしてほしくはないのだろう。 だがライアンは、この女のくだらない優越――傭兵と付き合っているという――を満足させるに徹するのが仕事だ。ライアンは、腹のそこから笑い出したい気持ちで、この女が友人に電話しているのを聞いた。 ――そうそう、だって好かれちゃったんだものしょうがないじゃない――そう、危険な男なの――あぶない? 危ないわよ。でも、そのくらいのほうが、スリルがあっていいじゃない――危険な事件に巻き込まれる? そうね、でもきっと、私なら切り抜けられるわ――。 ライアンも口の端だけで愛想よく笑ってみせた。女のヒロイン気取りを持てはやすのもたいそうな仕事だ。 まったくこの女ときたら、L6系からL7系の女はかわいいものだという、軍事惑星の男の幻想を木っ端みじんに打ち砕いてくれる。ライアンも、いつもなら視界にすら入れないような女の機嫌をなだめて、適度な危険とスリルを与えて、逃がさないようにするのは存外骨が折れた。だがこの女の都合がいいところは、嫉妬深いところだ。ライアンがほかの女に目をやるだけで、嫉妬して暴れた。本気で付き合っていたら面倒なことこの上ないが、恋に陶酔している女は楽に言うことを聞かせることができる。――利用するにはちょうどいい。 |