クラウドが、絵を銀行のほうの保管庫に預ける手配をしたり、ララに電話をしている間、ルナとミシェルもアズラエルと一緒にロビーで待っていた。すべての手配を済ませ、クラウドがロビーに戻ってきたのは三十分後だった。

 「ララは、今宇宙船を離れているらしい。連絡が取れない」

 クラウドは肩をすくめた。

 「帰ったら連絡をもらえるように、言づけてはおいたけどね――アズ、平気?」

 「ああ」

 アズラエルは、すこし顔色がよくなっていた。

 「絵の梱包の中には、とくに請求書みたいなものは入っていなかったし、あの絵はやっぱり、無償でルナちゃんに譲られたものだと考えていいんじゃないかな」

 ルナはぜんぜん、譲られる理由がわからなかったが、船大工の絵を老ヒツジからもらう夢を見たのはたしかだ。絵をもらうはずが、実際にもらったのはシャンデリアの模型で、ルナはそれを、八つ頭の龍にあげたのだった。椿の宿で熱を出したときに見た夢だ。

 

「ほかの絵はすべて焼却処分だったというけれど――あれだけ残された。サルーディーバ記念館が閉館したのは三月だ。今は六月。なにか問題が起こったら、とっくにマスコミに流れてるだろうし、それもない。極秘裏にルナちゃんに送られたものなんだろう」

「その――何代目だかの――サルーディーバが送りなさいって言ったんじゃない、ルナに」

ミシェルはなにげなく言ったことだが、彼女が百五十六代目サルーディーバの生まれ変わりだということは、ミシェルをのぞく三人が知っている。ミシェルもほんとうは知っているはずなのだが、すっかり忘れていた。自分の前世のことなどは。

本人(?)が言うならそうなんだろうと、ルナとクラウドは結論付けた。アズラエルも苦い顔をしていたが、ふたりと同じようなことを考えていたに違いない。

 

「百五十六代目サルーディーバが、そう書き残していたんだろうね。――ほんとのところ、意味はまだ、」

 「わかってる。まともに考えちゃパンクするネタだろう」

 アズラエルがいい、クラウドも、「アズもわかってきたじゃないか」と笑った。

 「うんあのね。あたしね、夢の中の遊園地で、やぎさん――あ、羊さんだ! に美術館を案内してもらったの。でね、どれか絵をあげるって言われて、あの絵を選んで――八つ頭の龍さんが泣いてて、ぐるぐるして冷えピタ貼って、あたしシャンデリアをあげて、」

 「よくわかった。クラウドの報告書を読む」

 アズラエルの一刀両断にルナはモギャーと怒ったが、怒りのうさこたんはいつもどおりスルーされた。

 

 「まあ、これでよかったのかもしれない。百五十六代目のサルーディーバが描いた神話の絵だ。ララに預ければ、真砂名神社に飾ってもらえるだろうし、そうでなくても、美術館とかツテがあるだろう。一件落着だね」

 「うん」

 ルナは頬を膨らませたまま、頷いた。話を聞いてもらえなかったことは不満だが、ララに渡してもらえるなら文句はない。

 

 ――正しくはあの絵は、サルーディーバが描いた絵ではなく、百五十六代目サルーディーバの前世である、謎の画家――L78の農家の姉妹の、妹――が描いた絵だ。

百五十六代目サルーディーバは、グレン・E・ドーソンが宇宙船から持ち出した絵を、宇宙船に返すためにそうしたのだった。彼に、「船大工の兄弟の絵」を持ち出すように指示したのもかのサルーディーバだったが、(もっとも、彼は絵を指定したわけではなかったが)ミシェルの何気ない言葉は当たっていた。サルーディーバは、記念館の館長に、すべてを焼却するときに、ルナという人物に船大工の兄弟の絵を送ることを、遺言として残していたのだった。

 ルナに届けた意味は、ミシェルとルナが、ララと出会えるようにするためだ。

 

 ――そして、もうひとつの目的のために。

 

 「じゃあ、用が済んだからK12に行こう! あたしおなかすいたよ〜!」

 ミシェルが背伸びして立った。もうとっくに昼時は過ぎていたし、カフェでは飲みものを飲んだきり。ルナも朝食が早かったので、自覚した胃袋はさっそくぐうと鳴った。

 「腹ァ減ったな。肉食えるとこいこうぜ」

 「賛成〜、あたしハンバーグ食べたい」

 アズラエルが身を起こし、ミシェルがハンバーグ、ハンバーグ♪ と歌いながら席を立った。

 

 ミシェルがクラウドと手をつないでエントランスを出、アズラエルがのっそりそのあとをついていくのを後ろから眺めながら、ルナは見えるはずもないのにそっと後ろを振り返った。

船大工の絵。今は、管理倉庫で眠っている。

 さっき絵を見た瞬間、一度だけ胸がうずいた気がした。だが、アズラエルほど拒否反応は示さなかった。

 ルナは、幼いころマーサ・ジャ・ハーナの神話を読んだことがある。船大工の兄弟の話も読んだことがあるはずなのだが、なぜか記憶に残っていない。

 宇宙船に乗ってからは、マーサ・ジャ・ハーナの神話の本は読んでいない。こわくもあるし、もういいだろうと思う節もあるからだ。

 

 『……この絵は、あなたにとっては痛みを覚えるばかりでしょう』

 『……ええ』

 

 ルナは夢の中であの絵を見た。

 

 『でも、もういいんです』

 

 ルナはそう言った。夢で羊のおじいさんと会話をしながら。そうだ、きっと、もういいのだ。たとえあれが、「はじまりの物語」であったとしても――。

 

 『……苦しみや悲しみ、つらさ、そういった経験は、もう、いらないだろう? おまえがいらないと思ったら、それでもう、忘れていいものなんだ。いつまでも後生大事に自分の中にしまっておく必要はない。捨ててしまっていいんだ。むやみやたらに傷つきたがる必要もなければ、大切にしまっておく必要もない。長い年月が、苦しみの経験を癒し、浄化してくれる。不思議だろう? 苦しみは長い年月の中でやがて喜びや嬉しさと混じりあって熟し、それは不思議な強さや、安心の元になるんだ。捨てても捨てきれなくても、やがて円熟する。お前にもアズラエルにも、そういう強みがあるんだ。今はまだ、真新しいキズに、気を取られているだけだ。傷もやがてかさぶたになり、綺麗にかさぶたも取れる時が来る』

 

いつかグレンが言った言葉を思い出す。

 

 (そうであったらいい。アズも、グレンも、セルゲイも。――あたしも)

 

 グレンは、あの絵をどう見るのだろうか。セルゲイは?

 

 (アズラエルも、あの絵を、あたしと同じ気持ちで見られるときがくるんだろうか)

 

 ルナはエントランスに背を向け、車に向かいながら、ひそかに願った。