ララが屋敷に着くと、アンジェラはアトリエでスケッチブックに向かっていた。乱れたドレス姿ではあったが、ララの帰着時刻だ。さすがに男は部屋から追い出したようだった。 さすがにアンジェラなりに、悪びれたふうではあったのか、すこし憔悴した顔で、手持無沙汰にスケッチブックをめくっていた。 ララは、秘書とスタッフから、今日の講習会の結末はすっかり聞いていた。ミシェルの態度に気分を悪くしたアンジェラが、結局十分の講義すらまともにせず壇上をあとにしたと――ファンだという男のプレゼントも受け取らなかった。 アンジェラの態度に激怒したスタッフ責任者の、「申し訳ないが、これからアンジェラ氏の個展の援助は、考えさせていただきます!」との言葉をアンジェラはどう聞いたか。すこしはこたえたか。まず、こたえることは、ないだろう。 アンジェラは、自分が作品を作れば金になると思っている。自分の作品を披露し、宣伝し、販売し、流通を確保してくれる人間の大切さがつゆほども分からない。 「アンジー」 ララがドア先に立っていたのを、アンジェラは気がつかなかったのか、びくりと肩を揺らした。だが返事はないし、こちらを向こうともしなかった。 ララに叱られるのを怯えているのだ――こどものように。 「あんた、今日は完璧にあたしの顔を潰してくれたね」 アンジェラの白い二の腕が震えている。 「ペナルティーを受けてもらうよ。あんたはしばらくアトリエに籠りな。外へ出ることは許さない。ほとぼりが冷めるまで、個展もなしだ。いいね?」 ララの言葉に、アンジェラの肩がほっとしたように下がった。白い手が、汗ばんでいるだろう項を擦った。赤くなっていた。 そんなものはペナルティーにはならない。アンジェラはむしろそれを望んでいるのだから。個展も展示会も、その美貌をマスメディアに晒すのも、アンジェラの本意ではない。アンジェラとしては閉じこもりきりで誰かと寝て、怠惰に過ごして、創作したいのだ。 これではペナルティーではなく、褒美ではないかとクラウドは怒りそうだが、ララは、クラウドには分かるまいと思っていた。 アンジェラの生き方そのものが、ペナルティーに他ならないことを。 アンジェラの生き方――結末には、破滅しか残っていない、その生き様が。 羽ばたけないはずの孔雀が羽ばたけばどうなるのか――結末など分かりきっている。 「講習会なんてどうでもいい。そんなことより」 ララは、アンジェラを追い詰めるだけでしかない言葉を、言わなければならなかった。クラウドが望む「ペナルティー」は、それでじゅうぶんだろう。 「あたしは見つけたからね。以前から探していた、百五十六代目サルーディーバの生まれ変わりを」 アンジェラが、蒼白な顔で振り返った。ガタン! と豪奢な椅子が揺らぐほどのいきおいで。 「――どこに」 声が震えていたが、ララは躊躇わなかった。バカ正直に白状した。 「だまっていたっていずれあんたの耳にも入ること。だから教えるけど、あんたは決して、その子に何かをするんじゃないよ」 するなといっても、しろといっても、アンジェラが言うことを聞かないことは、ララには承知の上だ。赤子は、親の思い通りには動かない。だが、言わないわけにはいかない。 ララが、ミシェルを守る。アンジェラに手は出させない。 「ララは――あたしを見捨てるの」 アンジェラが掴みかかってきた。目が血走っている。――ずいぶん、荒れた肌だと思った。酒と薬でやけた肌を化粧で隠していても、ここまで近づけば分かってしまう。 「その子が見つかれば、あたしは用無しなの? そうなのね?」 「いいかい、アンジー。何度も言っているように、あたしはあんたを見捨てはしない」 親が子を、見捨てるものかとララは念を押した。ララはアンジェラの親ではない。だが、L42のスラムでこの子を拾ったときから、一生守ると決めていた。 「あんたが絵をかけなくなっても、なにも作れなくなっても、どんな問題を起こしたって見捨てやしない。あんたはあたしが――“最後”まで面倒を見るよ。あたしの宝物だから」 ララはアンジェラを愛おしげに抱きしめる。アンジェラも必死でしがみついた。 「あんたとあの子は――ミシェルは、違うんだよ」 アンジェラはそこでやっと、百五十六代目サルーディーバの生まれ変わりの正体が分かったようだ。 「ミ……ミシェル?」 ふらふらとララから離れ、恐れ憚るようにその名を口にする。ララはアンジェラの肩をつかみ、頷いた。 「そう。あんたが今日、“鏡”だといった、あの娘だよ」 動揺して、ララから二歩、三歩。後ずさるようにしたアンジェラの顔には、恐怖しか浮かんでいなかった。 「あ……あの子は嫌よ! もう見たくない、二度と見たくない!!」 「見なくていい」 ララは、言い聞かせるようにして、言葉を紡いだ。 「“鏡”を見るのが怖いかい? アンジー。その酒と薬と、男で荒れた姿を見るのが」 「ち……違うわ」 「哀れな子。――あたしがあんたと出会う前にサルディオネに会っていたら。あんたのZOOカードを早くに分かっていたら、こんなことにはならなかったのかね。あたしが、あんたに芸術の才能を見込んでしまったばっかりに」 孔雀は、自分の美しさを失うのが耐えられない。羽ばたきたい孔雀、羽ばたけない孔雀、アンジェラのしていることは、おのれの本質に合わないことばかり。 サルディオネは、アンジェラのカードを見て、「女優にはなれなかったの」と言った。 「このひとは、ただそこにいるだけで美しさを誰からも賛美されるのに」 ララは最初、その質問の意図が分からず、アンジェラが芸術家だということを告げると、サルディオネは一瞬眉を顰め――「そうか」とだけ言った。 でも、この人生は、この孔雀が自分で選んだのだとサルディオネは付け足した。 「この人の結末は、“炎上”」。 自らの激しい心が、いずれ自身をも焼き尽くすのだという。 羽ばたけないはずの孔雀が羽を揺らし、燃やし、自分の身を殺いで作り出している作品群。だから美しい。ひとの心を奪ってしまうほどに。うつくしい孔雀が自分の身を焼いて作り出した芸術品なのだから。 けれど、自分を削ってつくりだす作業は、いつか枯渇する。アンジェラは尽きるだろう、いつの日か。けれど、アンジェラから創作を取り上げることはもはやできない。その喜びを知ってしまった者から、取り上げることは。 サルディオネは言った。 「アンジェラの“人生”は、まだ始まったばかりだ」と。 アンジェラが世界的に有名なのは、彼女のつくる創作物に重ねて彼女自身の美貌がそれを後押ししているのは間違いない。つまり彼女のネームバリューは、造形物のみがつくったものではないのだ。 いっそ、サルディオネが最初に勘違いしたように、女優にでもしてやればよかったのか。 そうすれば――少なくとも、悲劇には傾かなかっただろうか。 ララが、彼女に芸術の道を歩ませなければ。 でも、この生き方は、彼女が望んだものだという。だとすれば、ララは見届けなければならない。孔雀が輝きだすのを。 もがき、傷つき、炎上しながらも進む道を。 アンジェラを抱きしめながら、ララはミシェルがつくったグラスの静謐を思った。 生まれたての魂であるアンジェラが作る作品群は、生まれたての赤子がすべてに好奇心を発揮して、すべてのものを新鮮にとらえる、純粋と生命力とに溢れている。そこに自身の身を削る凄絶さが加わったもの。刹那の時をとらえたうつくしさだ。 人は誰しも、壮絶に燃える炎から、目を反らすことはできない。 それもまた、貴重であるには違いない。アンジェラの芸術は、今しかない刹那の至宝だ。 ミシェルの作品は、まるで、老境にさしかかった徳人が、世の苦難を経て磨かれた魂が、ふたたび自然という大地に降り立ったかのようだ。 幾多の苦難も幸福もすでに経た視野で、そこには自己も苦難も幸福もなく、ありのままにとらえる。芸術というくくりすら、そこには存在しない。身を削るといった悲愴もない。ただ鏡のごとく、めのまえの自然を写し取るだけ――。 「――お前とミシェルは、違うんだよ」 まるで違う。ミシェルがアンジェラの作品を愛するのは、すでに過ぎ去ったものを、懐かしく見ているだけ。赤子にもどれない老人が、ありし日を懐かしんでいるのだ。 そして春が来て夏が来、秋が来て冬が来るように、赤子は一瞬にして老人にはなれない。アンジェラは、ミシェルにはなれないのだ。 ミシェルのように、時を経て、磨かれなければ――。 たとえどんな結末であれ、ミシェルの世界にたどり着くまでには、アンジェラには避けて通れない道なのか。 「あんたは、哀れな子」 サルディオネの言った彼女の“末路”を、ララは見届けねばならないのかと思うと胸が痛んだ。 孔雀の凄絶な芸術の、末路を。 魂の芸術の、はじまりを。 |