九十七話 エレナとルーイの降船




 

「ただいまあ」

「お邪魔します。……ルナ、いるかい」

ルナたちが家に帰って、腰を落ち着けたころだった。玄関のベルが鳴り、ルナがてててっと玄関に走ってドアを開けると、そこにはミシェルとエレナの姿が。

 

「ミシェルおかえり! エレナさん、いらっしゃい!」

ふたりは、同じ手芸店の紙袋を下げていた。

「ルナ、誰? お客さん?」

ミシェル以外の聞きなれない声を聞きつけたせいだろうか。ピエトもリビングから駆けてきた。ピエトを見ると、エレナの切れ長の目が、真ん丸になった。

「……でしょ?」

ミシェルが、エレナに目配せし、

「本当だ。アズラエルにそっくり」

エレナが、感心したように何度も首を縦に振った。

「生んでないよ、あたし」

ルナは一応訂正しておいた。

 

「ピエトって言うんだろ。ミシェルちゃんから聞いたよ。あたしはエレナ。よろしくね」

エレナがふんわりと笑うと、ピエトの顔が真っ赤になった。珍しいことに、ルナの背に、ささっと隠れる。

「ど、どうしたの、ピエト」

物怖じしないピエトが、人見知りを? ルナがびっくりしていると、ミシェルが笑いながら言った。

「エレナさん、綺麗だから照れちゃったんだよね〜」

「来たか。入れよ、エレナ」

アズラエルまで顔を出したので、エレナはくすくす笑いながら、「じゃあ、お邪魔するね」と言ってリビングに向かった。ミシェルも後を追う。ピエトはずっと、ルナの陰からエレナの後ろ姿を見つめ、

「なあ、ルナ」

「んん?」

「……あの人、お姫様? すっごい綺麗だ……」

と呟いたので、ルナもついに噴き出してしまった。

「もう王子様がいる、お姫様だけどね」

残念だったねとルナが言うと、ピエトは口をとがらせて、「俺にはルナがいるからいいもん!」と叫んだ。ルナはお約束通り、ピエトをぎゅうっとしたのである。

 

クラウドの心配をよそに、ミシェルは出かけたときより元気だった。クラウドが何気なく、「講習会はどうだったの」と聞くと、ミシェルより先に、エレナがけたたましい勢いで暴露した。

エレナによる、「アンジェラという意地悪なおばさんがミシェルをいじめた」という講演会が始まった。それはアンジェラの講義より、よほど長かった。

エレナの講義によると、クラウドが事前に調べていた出来事は、ほぼ百パーセント、起こったということだ。ミシェルもエレナも、その十分程度の講義すら聞かず出てきたことになるが、ミシェルは落ち込んでいる様子も――傷ついた心を隠して無理をしている様子も、ない。

 

「……ミシェル、だいじょうぶなの」

「なにが?」

クラウドは、ちょっとだけ――いや、かなり、ミシェルが大泣きに泣いて自分の胸に飛び込んでくる結末を期待していた。そして傷ついたミシェルを心身ともに時間をかけて慰める俺――という幸せな妄想に浸っていたのだが、そちらはどうやら現実化しないようだ。

(なんでなんだろうな……)

世の中というものは、クラウドの明晰な頭脳をもってしても、思うようにはいかなかった。

 

「お昼ごはんを、ミシェルちゃんが奢ってくれてさ」

ふたりで、K37区のピザの美味しいレストランで食事をしてきたらしい。アンジェラの画集のお礼だと、ミシェルは幸せそうに、画集に頬ずりしながら付け足した。

ルナは、「あたしも行きたかった!」と叫びだそうとして、危うくとどまった。ミシェルもエレナも、そういえば、「ルナも今度一緒に行こうよ」と言ってくれるに決まっているが――その「今度」は、一週間以内。

ルナは、エレナを見つめた。

――ほんとうに、一週間後には降りてしまうんだろうか。

 

「ほえ〜、アンジェラ最高。やっぱ最高。……綺麗だわ〜このグラス。マジ欲しい」

ルナとクラウドの思いはよそに、ミシェルはアンジェラの画集に夢中だった。

アンジェラにひどいことを言われたのは事実なのに、アンジェラのファンであることは変わっていないらしい。クラウドは事実とミシェルの心理が旨く結びつかず、しきりに首をかしげていた。

 

「欲しかったら、このグラスもあげようか?」

エレナもさっそく包みを開けて、中のペアグラスを眺めながら言った。

「えっ!? いや、そこまでは……、あ!!」

ミシェルは、エレナの手にあるグラスが、自分がリリザで買ったものと同じだということに気付き、「エ、エレナさん」と、恐る恐る言った。

「――それ、あたしもう持ってるんだけど――あたし、それリリザで買ったとき、八十七万デル(税抜)だったの――」

あのチャンスを逃したら二度と買えないと思っていたから、貯金全額はたいて、残りはローンで買ったんだよ、とミシェルは付け足した。

それを聞いて、エレナだけではなく、ルナとアズラエルも「ふぐっ!!」と変な声を出して詰まった。

「コップふたつが、八十七万デル!?」

エレナは絶句して、グラスをまじまじと眺めた。

たしかに、ブルーのグラデーションも、魚の模様も綺麗だが――それにしても、そんな値段なんて――。

「そんなに高いもの、もらっちまってよかったのかな……」

参加費は三千デルだったのにとぶつぶつ呟くエレナに、

「そこまですれば、あんな講習会でも、クレームは抑えられるだろうと踏んだんだよ。それはアンジェラの作品の中でも新しいやつだから、今なら、オークションに出せばきっと、十倍の値で売れるかもよ――俺が、売ってあげようか?」

クラウドが冗談交じりにエレナに手を差し出したが、エレナはグラスを抱きしめて、ぶんぶんと首を振った。

「売るなんて、もったいないよ! エレナさんが売るなら、あたしがローンで買うわ!」

六十回払いくらいで、何とか、とミシェルが苦笑いで言い、

「ミシェルは持ってんだろそれ。俺が一括で買うよ。エレナ、百万でどうだ」

アズラエルが、まるで煽るようににやにや笑いながら言うので、エレナはついに、

「これはあたしがもらったもんさ!」

と叫んだ。