「そう言われたら、あたし、頷いちゃってた……」 エレナの目からぽとり、としずくが落ちてコーヒーの水面に波をつくった。 「あたしがさいしょに想像してたのは――たったひとりで、L7系に行って、ちっちゃな家で、娼婦じゃない仕事で暮らして、一ヶ月に一度いちごのケーキを食べる生活。だんだんその世界が、こどもと一緒に暮らす世界に膨らんで……そのうちにルーイのおかげで、あたしの想像は一人じゃなくなっちゃった。ルーイと、セグと、それからルーイのお父さんと、お母さんと……欲ばりだね、あたしは」 「エレナさん」 ルナはついに我慢できなくて言ってしまった。 「しあわせになってね」 エレナは、やっとルナを見た。涙で真っ赤になった目で。 「……ルナと、ここでケーキを食べたの、本当に嬉しかった」 あんたを一度は殺そうとした――あたしを許してくれて、ありがとう。 講習会では泣かなかったミシェルが――ずずっと鼻を啜ったおかげで、ルナも涙目になったのを、ごまかすことができた。 「ミシェルちゃんもありがとう。あたし、羊毛フェルトでいっぱいマスコット作るよ。ルーイの分も、セグの分も」 「ちょ……やば、それダメ、あたし、それダメだわ……」 ついにミシェルもずびびと大きな音をたてて鼻をかんだ。音が大きすぎて、男たちにも気づかれてしまった。 「なんで、みんな泣いてるの」 子どもとは、黙っていられないものだ。ピエトの言うみんなとは、ルナとエレナとミシェルだけではなかった。聞いていないはずのルーイまで目と鼻を赤くし、ミシェルからティッシュをもらっていたのでは、ごまかしようもなかった。 「ごめ、ごめ、ごめんでも俺はエレナと、セグと、エレ、エレナを幸せに……、」 ミシェルとルナと、エレナとルーイの鼻をかむ音だけがしばらく盛大に響いた。 「エレナ」 クラウドがエレナに手を差し出した。 「俺のことを忘れないで。俺は、エレナにはじめてできた、寝なくてもいい男友達だろ?」 この地獄耳どもは全員、聞いていたのだ。 エレナはしっかりとクラウドの手を握り、涙をぬぐうためにやっと離した。アズラエルは何も言わなかった。だまって、エレナの頭を撫でた。エレナの目はふたたび決壊し、アズラエルの懐を十二分に濡らすまで泣いた。大洪水だった。 ルナがエレナの背をさすり、ルーイも同じだけ大号泣していたが、だれもルーイの背はさすってくれないので、ピエトが見様見真似でルナのまねをし、ルーイの背をさすってやった。 「おまえ! いいヤツだなあああああ!」 「うわっ! 気持ち悪ィ! 男に抱かれる趣味ねえって!!」 感動したルーイがピエトを抱きすくめ、いいこいいこをしだしたので、ピエトは暴れ、やっとみんなの笑い声とともに涙は止まったのだった。 「降りちゃうのか、ほんとに。残念だなあ」 涙が笑いに紛れたそのとき、八人目の声がして、皆の目はそちらに向いた。 アントニオが、お盆にコーヒーポットと、スリムなグラスに盛られたパフェをふたつ載せて、立っていたのだ。 「アントニオ――店、いいのかよ」 「だいじょうぶ。今の時間帯、混まないしね。俺もちょっと、交じっていい?」 「ああ、す、座ってくれ」 ルーイが鼻まで真っ赤になった涙顔を隠しつつ、隣をあけた。アズラエルが傍のテーブルから椅子を引っ張った。 「これ、お代わり用のコーヒーね」 飲んで、とアントニオは、まずコーヒーポットをテーブルの中央に置き、それからパフェをひとつずつ、エレナとルーイの前に置いた。 「え? 頼んでねえけど」 ルーイが不思議な顔をすると、アントニオが笑った。 「宇宙船を降りるひとへのサービスなんだ。リズンのね――ルナっちは、知ってると思うけど」 アントニオのおおげさなウインクに、ルナは頷いてみせた。ルナがケヴィンを、このリズンから見送ったのが、なんだか遠い昔のことのように思えた。ルナは俯く。陽が沈む夕暮れは、なぜこんなにも感傷的になるのだろう。 「そ、そうか。悪いな! じゃあ遠慮なくいただきます!」 「い、いただきます」 ルーイもエレナも、甘いものは好きな方だ。だがショートケーキを食べたあとだったし、パフェは小ぶりだが、食べきれるか不安で――不安は、杞憂だった。 「……それ、なに?」 ピエトが涎を垂らさんばかりの顔でパフェを見つめていたので、大人たちは思わず噴き出した。 「おまえも食うか? いっしょに食おうぜ」 ルーイが、ピエトのほうへパフェを置いた。 「いいのか!?」 ピエトは目を輝かせてスプーンを取った。今、パフェを食べてしまったら、ピエトは夕ご飯が入らない。ルナは止めようとして、やめた。 ――今日くらい、いいだろう。 「ルナ、ミシェルちゃん、いっしょに食べよ」 エレナのパフェは女三人でつついた。ケヴィンが宇宙船を降りたときは、チョコレートパフェだったが、今日のパフェは違っていた。柑橘系の香りがするクリームもさっぱりとしていて、ルーイはひとくち口に入れた瞬間に、ぜんぶ食えそうだと思った。 エレナもそう思った。思ったよりずっと爽やかな味だ。 オレンジとミントが飾られていて、アイスも、レモネードの味がするシャーベット。エレナの好きな、レモネードの味――。 (――あ) 夕日。そして、このレモネードの味。 エレナが、すべてに疲れて、このリズンのそばの公園にたどり着いたときだった。 エレナは沈むようにベンチで寝た。そのとき、温かいレモネードを置き、毛布を掛けて撫でていってくれたのは、ほんとうは、誰だっただろう。 アントニオは、用意された席には座っていなかった。ルーイとエレナの後ろにいて、二人の肩を抱くと、 「リズンのパフェ、忘れないでね」 にっこり、笑った。 「忘れねえよ。ここのメシも美味かったし――アントニオのこともさ、」 「そんなこと言われたら、俺も泣いちゃうよ。仕事中なのに!」 「それに、このパフェ、旨いぜ」 ルーイの言葉はお世辞ではなかった。ピエトと二人で、あっという間にグラスを空にしてしまった。 「そう? よかったな。今年の夏に出そうと思ってた新メニューなんだ」 「へえ……もう食えねえのが残念だな……」 「バーベキューパーティー、楽しかったねえ」 「ああ。もう一回くらいやってから、降りたかったな」 アントニオの顔に夕日が影を差し、その姿が、エレナが夢うつつに見た、毛布を掛けてくれただれかの姿に重なった。エレナは確信した。でも、言おうと思った言葉が、口から出なかった。 「エレナさん、最後のアイスのとこ、食べない?」 ミシェルに呼ばれて、エレナははっとテーブルに意識を戻した。めのまえにあったのは、レモネードのシャーベットが半分残った、ロンググラス。 エレナが慌てて後ろを向いたが、もうアントニオはいなかった。オレンジ色の、沈む間際の太陽が、色をにじませて、空を茜色に染め上げているだけだ。 「あの――さっきの男の人は? アントニオさんは――」 ルーイが、きょとんとした顔で言った。 「? もう店のなかに帰ったぜ。見送りにはいけないかもしれないけど、元気でなって言ってた――って、エレナも聞いてたじゃん」 「……え」 エレナが見ていたのは、太陽の光だったのか――アントニオだと思っていた。 (……ありがとう) エレナは、店の方を見つめて、あのとき言えなかった言葉を、心の中でつぶやいた。 |