ちょうどルナたちがリズンを出発したころ、開店まえのリズンのカウンター席で、サルディオネが真っ赤な目をさせて、分厚い本をパタン、と閉じたところだった。

 

 「――長い」

 サルディオネは、げんなりした声でぼやいた。

 「長すぎる」

 

 リズンの、食事を提供する開店時間には早いが、店先の小さな出店で、テイクアウトのドリンクは買える。アントニオはそこから湯気をたてるコーヒーを一杯もらってきて、サルディオネの横に置いた。

 「そんなに根を詰めなくてもいいんじゃない?」

 「そういうわけにいかないよ」

 サルディオネはゆらりと体を起こすと、「あち」と言いながらコーヒーを口に含んだ。

 「ルナのことにしろ、メルヴァのことにしろ、マーサ・ジャ・ハーナの神話をぜんぶ知らないことには、この先、なんの真実も浮かんでこないよ」

 「君がぜんぶを読む必要はないでしょ」

 「そうかもしれないし、そうじゃないかも。でも、ルナが“導きの子ウサギ”と出会った。きっとこれから、猛スピードで事が進むよ。ルナはきっと、真実に導かれる速度が速くなる」

 サルディオネはカウンターに突っ伏して、呆けたようにつぶやいた。

「昨夜、ララがあたしに電話してきたよ。ミシェルの正体を、ララは悟った。いよいよ、ルナとミシェルが、ララに出会うんだ」

「よかったじゃない」

ララは、あのふたりに会うことを熱望していたんだから、とアントニオが言うと、

「よかったはよかったけど、展開が早すぎる。ルナがララと会うのは、もっと先のことだとあたしは思っていたんだ。導きの子ウサギがそばにいるってだけで、ルナに会うべき人間が、つぎつぎルナのところに引き寄せられてくる――あたしがそれに、追いついていけるかどうか」

 アントニオは苦笑するばかりだ。

 「気負いすぎだよ、アンジェ」

 「でも、さすがのあたしも参ったわ――“地球”のマーサ・ジャ・ハーナの神話って、なんでこんな長いの」

 

 本気で読もうとすれば、全五十巻。

 一冊一冊も、A3の大きなサイズに、五センチはある分厚さ。

 目がしぱしぱしてくるぐらいの、文字の細かさ。

 

 サルディオネは本嫌いではなかったが、本嫌いではなくても、期限の差し迫った焦る心で、しかも多忙な身となれば、この本の分厚さと長編さをめのまえにしただけで意気消沈するのは致し方ないことだ。

 

 サルディオネは、ここ一ヶ月ばかり、マーサ・ジャ・ハーナの神話を熟読することに、全神経を注いでいた。

ルナの前世も、マーサ・ジャ・ハーナの神話にまつわるものが多い。サルディオネも、クラウドがまとめた、ルナの前世の資料をすっかり読んでいた。けれど、いままであきらかになったルナの前世のなかに、メルヴァと関わるものが、なにひとつとしてない。

こんなにも大げさ染みてルナを殺す役割を担った者が、ルナの前世に関わっていないのはおかしい。サルディオネはそう思い始めていた。

マーサ・ジャ・ハーナの神話に、メルヴァとルナのかかわりが、隠されてはいないだろうか。

 

サルディオネは、徹底的にマーサ・ジャ・ハーナの神話を洗い出すことに決めた。

さいわい、マーサ・ジャ・ハーナの神話には、幼いころから慣れ親しんでいる。だが、中央区役所の書庫に、マーサ・ジャ・ハーナの神話(正伝)と記された本が全五十巻あることに息をのみ、その本の大きさと分厚さに圧倒された。

おまけに、サルディオネが読み始めた第一巻は、サルディオネが読んだことのない話ばかりで、最初は面食らった。

神話のことを調べるうちに、L系惑星群で読まれているそれは、“地球”につたわるマーサ・ジャ・ハーナの神話だということがわかった。

 しかも、長い長い物語の、後半部分のみ。

 

 つまり、サルディオネが昔読んだ神話は、地球時代から伝わったものであり、その後半一部分でしかないことが分かったわけである。

 

 「おかしいよ」

 サルディオネはつぶやいた。

 「あたしが昔読んだのは、“ラグ・ヴァーダ”のマーサ・ジャ・ハーナの神話のはずだよ」

 

 「アンジェが読んだのは、“地球”の神話の方だよ」

 アントニオは挽いたコーヒー豆を袋に詰め詰め、言った。

 「L03じゃ、“ラグ・ヴァーダ”の神話だって言われているけれど、アンジェが読んだのはまちがいなく、地球の神話の方だ」

 「なんでそう言いきれるの」

 「ラグ・ヴァーダにつたわるマーサ・ジャ・ハーナの神話は、もう口伝でしか残っていないから」

 アントニオは、苦笑した。

「地球人がL系惑星群を支配したあとは、そっちの神話しか残っていない。“ラグ・ヴァーダ”の神話も、“アストロイ”の神話も、大部分が地球のと同じだけれど、“はじまりの神話”が、ぜんぜん違うよ」

 

 サルディオネは、だらけていた身体を、ばばっと起こした。

 「今なんつった!? なんだアストロイって!?」

「マーサ・ジャ・ハーナの神話は、三つあるんだよ」

アントニオは指を三本、立てて見せた。

「ほんとうは、地球の神話と、L系惑星群と、惑星アストロスの神話が交じりあって構成されたのが、マーサ・ジャ・ハーナの神話なんだ」

 

「なんだって」

サルディオネは蒼ざめた。

「地球のだって、全五十巻なんて馬鹿げた数字なのに、あと二種類もあるの!?」

 

「はじまりの物語」と名のついたものだけでも、十話はあるのだ。

これじゃ、一生かかっても読めやしないよ! とサルディオネは頭を抱えた。サルディオネはヒマではない。仕事の合間に、明け方三時くらいに起きて神話を読む生活が始まり、一ヶ月かかってやっと第一巻を読み終えたのだ。

 

「だからあきらめなって。今のアンジェは、大樹の根っこのあたりをうろついてるネズミみたいだよ。どこかにチーズが落ちてないかってね。ZOOの支配者は、大樹そのものを見なきゃいけないでしょ」

「……だって。ルナが前世の夢を見るのを待ってるだけなんて、歯がゆくって……」

アントニオは、仕込みの手を休めて、笑んだ。

「ほんとに根っこのネズミだ。だから気が付かないんだよ。いいことを教えてあげる」

「いいことって?」

「地球と、L系惑星群と、アストロスのマーサ・ジャ・ハーナの神話をすべて知っている人間は、この世界にたった五人だけ」

「そのひとりって、アントニオ?」

アントニオは首を振った。

「俺も全部は分からない。俺じゃないよ。――幸運なことに、そのひとりが、俺たちの身近にいる」

「もったいぶらないで教えて!」

サルディオネが、席から立って、出ていく気配を見せた。いますぐにでも、その人物に会いに行くつもりなのだろう。

 

「ミーちゃんだよ」

 

アントニオがもういちど顔を上げたときには、サルディオネはいなかった。

「ミヒャエル・D・カザマ――カーダマーヴァ一族の末裔――って……」

最後まで聞いてくれたらいいのに、というアントニオのボヤキは、だれもいない店内に掻き消えた。