ミシェルがひとけのないアイボリーの廊下を駆けて行って、ルナはしんとした空間にのこされた。船大工の絵の、ちらちらと布のはしをめくったり、覗いたりしていたが、

「これじゃスカートめくりだ!」

覗いても、なかにあるのは筋肉質のむさい男二人だが。

ルナはやめた。そのかわり、あたりをキョロキョロ見回していると、自分が立っているのが、展示室の入り口だというのに気付いた。だがここは、受け付けの人間もいなければ、見に来ている人もいない。

ルナはふたたびあたりを見回し、だれもいないことを確かめ、中に入った。

 

(――あ)

 

ここは、さっきタクシー運転手の言っていた、美術館創設の歴史が展示された部屋だった。

広い展示室に、年表や写真、だれかが描いた絵が飾ってある。

ルナは、入ってすぐのところにある、額の中の写真に目をとめた。

それはルーシーの顔写真だった。つばの広い帽子をかぶり、日差しが眩しかったのか、すこし目を細めて微笑んでいる写真。三十代後半ころの写真だろうか。

ルナは自分で言うのもなんだが、とっても美人だとおもった。しかも、ずいぶん賢そうな面立ち。女社長という肩書がぴったりくるような、いかにも仕事ができそうな、そんな貫禄ある表情。

(あたしもこれだけ、美人に生まれたかったな)

写真下の説明を見れば、やはり三十八歳の時の写真だった。年表を見れば、わかる。ルーシーは五十歳にならず、亡くなっているのだ。

 

その隣にあるのは、夫だという、パーヴェル・J・ウィルキンソンの肖像画。こちらは写真ではなく、コンテか鉛筆で描いた精巧な写実画だ。ルーシー本人が描いたものだと書かれている。

 

(……)

 

ルナは、目の錯覚だと信じたかった。

信じたかったが――気のせいと思うには、あまりに。

 

あまりに彼の肖像画は――セルゲイに似ていた。

 

ルナがこしこしと目を擦っていると、ふいに人の気配がした。

 

「ルーシー自身も、絵をかくのが趣味だったようです。本人は自作をあまり気に入ってはいませんでしたが、」

背の高い、スーツ姿の、黒髪を後ろになでつけた青年が立っていた。青年の顔があまりに怜悧なため、ルナはここに勝手に入ったことを叱られるかと思ったが、そうではなかった。

青年は部屋に入ってき、好意的とも思えるしぐさでルナの肩に両手を置き、壁に貼られた年表と、肖像画をしめした。

 

「素敵でしょう。わたしは、ルーシーの絵が好きです。彼女は――子供にも恵まれず、夫との関係も冷め切っていた。私生活ではつらいことが多かった彼女の唯一の趣味が、絵を描くことだったといいます」

年表と写真以外の、肖像画と風景画、静物画――ここにあるすべての絵は、ルーシーが描いたものだと彼は教えてくれた。

この青年は誰だろう。ルナは思ったが、ララではなさそうだった。

「ルーシーは、晩年、彼女の会社を夫パーヴェルの会社に組み込ませ、自分は田舎にひっこんで、絵を描いて暮らしたいと願っていました。でも、それが叶わなかった」

 

ルナは、ルーシーの死因が書かれた年表の文字の横に、小さな写真が置かれているのを見た。

アロンゾ・D・ヴォバール――当時、L系惑星群を席巻していたマフィアのボス。軍需産業――傭兵の仲買人と、宝石の密輸入で勢力を拡大していた大きな組織の首領。

 

――アズラエルに、間違いなかった。

 

「アロンゾは、ルーシーの愛人で、ルーシーは彼に殺された」

「うん……」

 

ルナは、こくんと頷いた。――そう。グレンと一緒に。

 

ビアード・E・カテュスの横に、しっかりとグレンの面影を宿した男の顔写真がある。

グレンが右腕で、ビアードが、左腕だった――ルーシーの。

 

「ルーシー!!」

 

まるで、デジャヴュだった。

ルナはかつて、――ルーシーだった頃、何度もその声で、その名を呼ばれた。

 

「――ビアード」

 

思わずその名が口を突いて出――後ろの青年がいちど目を見張り、それから怜悧な顔におだやかな笑みを刻んだのは、“ビアード”も“ルーシー”も気づきはしない。

“ルーシー”は、“ビアード”に抱きしめられていた。

 

それこそ――千年ぶりに。

 

「ああ、ルーシー、会いたかった! 会いたかったよ! わたしのルーシー!!」

ルナは、自分をきつく抱きしめるララの背に、思わず腕を回していた。そうしてやりたくなったのだ。――このひとはたしかに、自分を必要としていた。

 

「わたしは――わたしは」

ルナは、自然と、口から言葉が零れ落ちることがあるのを知った。

「ごめんなさい。みんな――あなたに任せきりにして死んでしまった」

 

ララは涙でグショグショの顔で、ルナの頬を撫でた。

「そんなことはいいんだ! そんなことはいいんです――あなたに会えたから、もう、」

ララはとめどない涙を、秘書の差し出したハンカチで拭い、

「ごめ――ごめんよ。取り乱しちまって――」

 

ルナも、ララの気持ちが分かった。突き上げる思いが、たがいの胸をふかく満たしていたのだ。ルナの目からも、一筋の涙がこぼれていた。

ふたりはしばし見つめ合い、再会の喜びを、しずかに味わった。

 

「ルーシー……ルーシー。なぜだろうね? ひと目見て分かったよ。あなただって。ほんとうに不思議だ」

「ほんとうに不思議だね。わたしも、あなたがビアードだって、すぐわかった」

ララとルナは、一度「料亭まさな」で会っている。だがそのときは、互いの魂にまるで気づかなかった。それなのにどうだろう。今は、すっかり、互いがわかる。ふたりとも、過去とはまるで違う容姿なのに、たしかにビアードとルーシーがそこにいた。

 

「ルーシー――わたしの愛する社長――」

ララはそっと、ルナの頬の涙をぬぐうと、そのまま唇を合わせてきた――。

 

「ふぐっ!?」

ルナが我に返ったのは、濃厚としかいえないキスを仕掛けられてからだ。ルナは大慌てで暴れたが、ララの腕はビクともしなかった。ルナの唇をたっぷりと味わい、ルナの身体から力が抜けるのを見計らって、ララは口づけをやめた。ララの頬は、紅潮している。

「わたしのルーシー……なんて可愛らしく生まれてきたんだい?」

「……!?」

ルナの中に蘇った記憶に限り、ララの前世であるビアードは芸術狂で、ルーシーに対してどんな思いも持ってはいないはずだった。感謝と尊敬の念はあっても、それいじょうの思いは――グレンの方ではあるまいし。

 

「ララ様」

秘書のわざとらしい咳ばらいが聞こえた。秘書の顔は冷静なままだったが、ルナを助けてくれたことはたしかだった。

「夢にまで見るほど欲しかった、あの船大工の兄弟の絵が、そちらに」

「ああ――もちろん見るよ。今日は人生最高の日だ――」

ララは愛おしい視線をルナに注いだまま立ち、いっしょに船大工の兄弟の絵のまえに立った。

 

秘書がうやうやしく布を取り払うと、そこに全貌を表した。

ララが乞うてやまなかった、神話の絵が――。

 

ララは絵に額づいた。ルナに抱きついたように、神話の絵に縋りつき――「ああ!」とためいきとも叫びともつかない声を漏らした。

それからララは、絵に囚われてしまったように、ぴくりとも動かなくなってしまった。

秘書もなにもいわずその様子を見守っていたし、ルナもそうした。

ビアードがかつて、魂を奪われるような作品に出会ったときは、いつもこうだったことを思い出したからだ。

ルーシーはいつも、それを微笑ましく見守っていた。

広い部屋に絵画をこれでもかと運び込み、大きなソファにゆうぜんと身を横たえパイプを吹かすルーシーのまえで、ビアードは熱烈に絵を語り、うっとりと眺め、ときにはルーシーの存在さえ忘れてしまったかのように、芸術品に見惚れた。

放っておけば一時間でも二時間でも、彼はそうしていた。

ルナがぼんやりとそれを思い出して、またじわりと涙が浮かんできたとき。

 

――そのおだやかな沈黙を破り、現実に引き戻したのは、ほかならぬミシェルの声だった。